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論語も2,500年前のものであり、漢字を使っているからと言ってその意味が当時のまま現代に伝わっているかは必ずしも定かではなく、疑わしいところがあると思う。訳語も人によって違うのは事実である。今回キーワードとなるのが「剛者」という言葉であるが、 ここでは「意志の強い人」という意味で捉えているようである。
孔子は、例として挙げられた棖という人物について、「あんなに慾が深くては剛者にはなれない」と語っている。欲深いというと、「あれもこれも欲しがる」というイメージがする。しかも「手っ取り早く」である。それに対して、「意志が強い」となると、「時間をかけても目的を達する」というイメージがするから、確かに両者は相容れないように思う。「時間をかけても」という点に関しては、自分も意志が強い方だと昔から自覚している。
私は、子供の頃から「コツコツ派」である。普通の人が1時間かかることを天才は30分でやってしまうとしたら、私は2時間かけて追い抜くことを考える。大学受験も宅浪して1日10時間の勉強を363日やることを自分に課してやり抜いたし、最近ではマンション管理士の資格を3年かけて取得した(コツコツと積もり積もって1,027時間)。ウサギとカメの例で言えば、私は残念ながら完全に亀タイプである(自分ではゴールについてから寝るウサギに憧れている)。自分でも思うが、亀タイプは意志が強くないととてもできないと思う。
1日10時間の勉強は、宅浪時代にはこなせていたが、今はもう無理である。その代わり1週間で10時間(1日1時間、週末5時間)なら今でもできる。時間をかける(かかる)ことのデメリットは途中で(意志が)萎えることだろう。意志の強さは、「萎える」こととの戦いとも言える。よく言われる「三日坊主」は、まさに「萎える」ことに他ならない。「嫌になる」、「めんどくさくなる」ことである。妻の口癖、「明日からダイエット」と同義である。
なぜ、「萎える」のだろうか。それは一つには「希望」の支えがないからとも言える。希望があれば、「もうちょっと」という気持ちが維持できる。希望があれば、「なにくそ」という気持ちが持てる。逆に希望が潰えてしまうと「もうちょっと」も「なにくそ」も出てこない。しかしそれだけではなく、希望があっても他人(の気持ち)という要素が入ってくると意志の強さの世界とは異なるものとなる。例えば王女と兵士の話のようなものである。映画『ニューシネマパラダイス』で以下のような王女と兵士の話が紹介されていた。
ある兵士が王女に一目惚れしてしまう。兵士の熱意に王女は心を動かされ、100日の間、王宮の庭で王女を待ち続けたなら、王女は兵士に身を任せると約束する。私なら完勝だとほくそ笑むところである。兵士は、99日間、雨の日も雪の日も風の日も王宮の庭に立ち尽くし王女を待つ。立ち尽くす兵士に鳥が糞をし風雨に晒されるが、兵士は動かない。そして99日目の夜、つまり、あと1日で王女を手に入れることができるという晩に、兵士は王宮の庭から立ち去ってしまう。
兵士が立ち去った理由は、私は2つあると思う。1つはそんな風に試されるのが嫌だったからである。あえて99日目に去ったのは、「意志が弱い」と思われたくないからに他ならない。無茶な要求に対する抗議を含んでいる。そしてもう1つは身分違いの恋に対する王女への配慮だと思う。王女と結ばれれば自分は幸せになれるが、相手を幸せにすることはできないかもしれない。99日間の葛藤の末、兵士は自分の気持ちよりも王女を大切にしたというものである。
意志の強弱はあくまでも自分自身に向けるもの。相手があればそれは関係ない。自分も似たような経験があり、兵士の気持ちは後者だったと信じている(そしてそれが間違いだということも)が、自分自身に向けるものである限り、強靭な意志というものは人生を切り開いていく強力な武器になると思う。孔子の言うように、欲望は(希望との差は微妙ではあるが)その妨げになるかもしれない。
自分は、純粋なる希望を胸に努力し続けられる人間でありたいと思ってきたし、これからもそうありたいと思う。そして我が子にもそんな人間になってほしいと思うのである・・・
Elias Sch.によるPixabayからの画像 |
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