毎年会社で健康診断を受けているが、ここ数年毎年何かが引っ掛かっている。場合によっては再検査を受けることになるが、一昨年は3度目の大腸検査を受けた。昨年の指摘項目は「経過観察」で今年もその項目は継続。さらに今年は胃の指摘を受け、とうとう胃カメラを飲む羽目になった。幸いまったく異常はなかったが、ひょっとしたらマクドナルドのポテトではないが、患者単価を引き上げるためにわざと再検査にしているのではないかと疑いたくもなるくらいである。
人生初体験の胃カメラであるが、最初に「麻酔」と称して液体を口に含まされる。3分間口に含んでいてくれということ。終われば飲み干したが、これで麻酔になるというのもなかなか凄いと思う。医学の進歩にはいろいろな人の努力があるのだと思うが、麻酔一つにしてもそう思う。おかげでカメラを飲み込まされてもスムーズに入っていく。もちろん、要所要所で吐きそうになり、よだれでダラダラになる。担当してくれたのは美人女医さんだったからみっともない真似は曝したくなかったが、人間の体の防衛反応ゆえに仕方がない。このあたりはもう少しの医学の進歩に期待したいところである。
己のきれいな胃壁を見せられ、何の異常もないとの説明を受ける。何もなければ幸いで、たとえもしも病院の陰謀で検査費用稼ぎであえて検査されたとしても、怒りは湧いてこない。自分の体だからだろう。そう思ったら、先日突然の腹痛にのたうち回ることになってしまった。じわじわとした腹痛が続き、あぶら汗が流れる。挙句の果てに吐き気を催し、とうとうトイレで吐いてしまった。20代の頃は酒を飲み過ぎて吐くということもあったが、近年はそんな醜態をさらすこともなく、吐くなどということはもちろんなかったので、自分自身驚いてしまった。これはきっと何か悪性の病気に違いないと愕然となったものである。
今夜は何の映画を観ようかとか、何を食べようかとか、夏休みはどこかに出掛けられるだろうかとか、仕事の悩みとか、そういう普段の諸々は、激痛に耐えている間はどうでもよくなる。当たり前のことであるが、そんなこと言っている余裕など欠片もなくなる。腹痛の最後には血便が出た。それも「付いている」という程度のものではなく、固形物が出尽くしたあとに真っ赤な血である。色鮮やかなワインレッドに染まる便器内の水を見て、いよいよこれはマズいと思ったのである。
さっそく病院へ行ったところ、診察にあたった先生は大したことないという表情で、「虚血性腸炎」だと教えてくれた。入院してもいいが、食事療法くらいで何もすることがないということ。まるで風邪か何かのように大したことのないと言わんばかり。まぁ、軽く扱われるということはそれだけ安心だということに他ならない。それはそれでいいのであるが、ピーク時の激痛は何だったのだろうかと思ってしまう。そして喉元過ぎてしまえば我が身の一大事の思いも雲散霧消である。
痛みに苦しむ間は、何とか痛みが治まらないだろうかとそれだけ考えていた。そうして痛みが引いたあとは、医者に行くまでの間、これは一体何が原因で病名は何だろうかと、そればかりが頭を占領する。風邪のように気合で治るだろうかと試してみたところ、それが効いたのかどうかはわからないが、一晩寝たら何となく落ち着いた。とりあえず落ち着きはしたが、診察結果が出るまでは、他のことに考えを及ぼすゆとりはなかった。
考えてみれば、日頃あれこれと思い煩い、あるいはエンジョイできるのも土台となる体がしっかりしているからに他ならない。よく「健康が一番」と言われるが、まさに自分がそういう状態になると実感できる。「健全な精神は健全な肉体に宿る」というのもその通りで、健康であるからこそゆとりをもって考えられる。大哲学者だって、病気で苦しんでいる最中に人生の真理について思考を巡らすことはできないであろう。もちろん、死んでしまえば一切がその瞬間に無に帰すことになる。
逆に言えば、健康であればこそ悩むこともできる。そう考えれば、健康はやっぱり大事であり、あれこれと思い煩うことでさえも、健康であるから悩むことができるというもの。そう考えれば、悩むことすら尊く感じられる。もともと人間は当たり前であればあるほど、そのありがたみを忘れてしまう。水にしろ空気にしろ健康にしろである。若いうちはそれでも気にしなかったが、年齢を経てくるとその思いも強くなる。週末にはいつも深夜に映画を観ながらバーボンとそのお伴にお菓子を食べていたが、先週末は控えることにした。
Henryk NiestrójによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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