〔 原文 〕
子曰。苟志於仁矣。無惡也
〔 読み下し 〕
子曰わく、苟くも仁に志せば、悪しきこと無きなり
【訳】
先師がいわれた。――
「志がたえず仁に向ってさえおれば、過失はあっても悪を行なうことはない」
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古典に学ぶべきことが多いとはあちこちで言われている事であり、それを否定するつもりはない。かつて岩波文庫の論語を買って読んだが、もうすっかり忘れてしまっている。そこで改めて一つ一つ読み直しているが、その時心に浮かんだ諸々の雑感をここに記している。あくまでも感じたことであり、論語の解説では当然ない。岩波文庫の訳など、今読み返してみても意味がわからなかったりするから、そんな解釈は専門家に委ねるところで、ここはあくまでも雑感である。
ここで言われているのは、まずは「志」が大事ということである。「仁」を志していさえすれば、たとえ結果が間違ったとしても悪事になることはないということはなんとなくわかる。世の中、志が良くても結果が伴わないことはよくある。「ありがた迷惑」なんて言葉がある通りであり、親切心からやっていただいているのに、かえって迷惑してしまうということは多々あるものである。また、せっかくの好意なのに無駄になってしまうとか、「良かれと思ってやったのに」なんてこともよくある。
たとえば、実家へたまに帰ったりすると、帰り際に私の母親は何くれとなく持たせてくれようとする。それは田舎からもらってきた野菜だったり果物だったり、何もなくても冷蔵庫に入っていたコーヒー飲料だったりビールだったり。先日は自分で食べたくて買ったが食べきれないという小分けのお菓子であった。車で行く場合はともかく、会社帰りになど電車で行く場合は荷物になる。本当は何もいらないのであるが、ありがたがってもらうと嬉しそうなのでそれがためについついもらって帰る。親孝行だと思えば多少の重さもなんのそのであるからいいのであるが、素直にありがたいと思うようにしている。
また、そんなことをツラツラ考えていると思い出すのは、O・ヘンリーの小説『賢者の贈り物』である。ある貧しい若い夫婦がクリスマスを前にして途方に暮れている。互いに愛する相手にお金がなくて何もプレゼントできないのである。そこでそれぞれが一計を案じ、自分の大事にしていたものを売って(あるいは質に入れて)お金を作り相手にプレゼントを買う。ところが・・・というお話である。初めて読んだのは中学生くらいであったかと記憶しているが、心が温かくなる感動を味わったのを覚えている(「こんな夫婦になりたいな」という当時の淡い思いは、冷たい現実を前に儚い思い出になってしまっている)。
『賢者の贈り物』は、せっかくのプレゼントがお互いに役に立たなくなってしまっていたが、自分の大事にしていたものを犠牲にして相手のためのプレゼントにしたというもの。そこにあるのは自分の事よりも相手の喜ぶ顔を見たいという気持ち。その気持ちこそが読む人の感動を誘う。無駄になったという結果よりも、気持ち(≒志)という部分では、今回の言葉に相通じるものがあると思う。
何事も結果が伴うのが一番であると思う。だが、残念ながらいつも結果が出るとは限らない。それをやった方がいいのか、それともやらない方がいいのかと迷うこともある。「ありがた迷惑」かもしれないと思う時もあるかもしれない。そんな時、原点に戻って「志」を確認すべしというのが、今回の教えということになるのだろう。稲盛和夫さんも大事な意思決定の時には、「志善なるや」を自らの心に問うていたという。考え方としては同じだと思う。
『賢者の贈り物』の夫婦のようにはもはやなれないかもしれない。ただ、親の「ありがた迷惑」は素直にありがたいと思うことはできる。自らの志もそうであるが、相手の志も理解できるようでありたい。改めてそんなことを思うのである・・・
【本日の読書】
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