2019年1月9日水曜日

自殺は良いか悪いか

昨年末、『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』という本を読んだ。タイトルにある通り、「死」について様々な角度から議論した面白い本であった。我々日本人的には言霊の影響だろう、死について語るなど「縁起でもない」と忌避されそうな話であるが、真正面から考えているところがなかなかである。その中で、「自殺」についての議論があり、そこは一際興味深く読んだところである。

著者のシェリー・ケーガン教授は、自殺について、「もし自殺をするのが理にかなっている状況があるとしたらそれはどんな状況だろうか」と問いかける。これも我々の感覚としては、「そんな状況などあるわけがない」と否定しそうだが、個人的にはそうは思わない。むしろ自分の人生のピリオドを自分で打つのも悪いことではないケースもあると考えている。年を取って安楽死を望むケース以外にも、「自殺をするのが理にかなっている状況」を考えてみたことがあるのである。

それは4年前に転職をした時の事。大手都市銀行から中小企業に転職するにあたり、リスクを考えてみた。一番怖いのは倒産だったが、その場合どうなるだろうと。当然、再就職を考えるが、その時点ではもはや大銀行の後ろ盾はなく、孤軍奮闘しなければならないが、年齢的にも収入は激減するだろう。その時のシミュレーションをする際、「自殺」も検討したのである(あくまでも「選択肢の一つとして」で、本当に死のうとは考えていたわけではない)。

 まずは、自殺でも生命保険がおりるか聞いてみたところ、自分の場合は大丈夫との答えだった。そこでその場合の残された家族の収支計算をしてみたのである。まず、住宅ローンは団信があるからその時点で完済となる(まことにありがたい制度である)。それ以外に生命保険があるが、計算上今の手取りの収入額と比べるとだいたい15年くらいはもつことがわかった。その時点では、働いたとしても(定年までの)15年くらいだからほぼ同じとなる。つまり、経済的には十分合理的なわけである。

 となると、あとは私自身の存在である。一方、倒産して失業し、再就職するも収入激減というケースを考えると、激減した収入で住宅ローンを払うとなると、かなり生活は困窮する。妻もパートを今以上にやらないとならないし、子供たちも進学をあきらめるかもしれない。家族間にもすきま風が吹くかもしれないし、それでもなお家族は私という存在を必要とするだろうか。平和な状態で考えれば肯定的になるだろうが、本当に困窮したらわからないと思う。「私が余計なことをしたばかりに」という恨みは買うだろう。そのようなケースでは、自殺も理にかなうかもしれないと私は考えた。

バブル崩壊直後、経営難に陥った中小企業の経営者3人が一緒に自殺するという事件があった。当時銀行員として、日本経済の最前線に立っていた私は、「死ぬんだったら、死んだ気になってやれば何でもできるだろうに」と思ったのを覚えている。しかし、あくまでもケースバイケースであるが、それは自分自身だけの場合であって、(困窮の回避なども含めて)家族の幸せを考えた場合、必ずしもそうではないかもしれないと思う。「自分が死んだ方が家族が幸せになれる」としたら、それは自殺が理にかなう一つのケースではないかと思うのである。

 幸いにして、現在会社の業績は順調で、4期連続の増益決算となることが確実な状況である。今のところ定年もないので、可能な限りは働き続けようと考えているし、貴重な収入源として家族の中で辛うじて地位を確保できていると思う。ただ冷静に考えると、死んだ場合の経済的メリット(給与収入<生命保険金+住宅ローン完済)は年々大きくなるのは事実である。その事実を家族が知った時、どう思うか。経済合理性だけで判断されてしまうと厳しい状況であり、経済的メリット以上のものを示す必要がある。
 
 「稼いでいるから文句はないだろう」という態度ではなく、無私の愛に頼るのではなく、経済的な貢献以外の貢献も心掛けた方がいいなと、ちょっとヒヤヒヤしながら思うのである・・・






【本日の読書】
 

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