子夏問曰、巧笑倩兮、美目盼兮、素以爲絢兮、何謂也。子曰、繪事後素。
曰、禮後乎。子曰、起予者商也。始可與言詩已矣。
【読み下し】
子夏問うて曰わく、巧笑倩たり、美目盼たり、素以て絢を為すとは何の謂いぞや。子曰わく、絵の事は素きを後にす。曰わく、礼は後か。子曰わく、予を起す者は商なり。始めて与に詩を言うべきのみ。と
【訳】
子夏が、「詩経に『にっこり笑うと口元にえくぼ、目元ぱっちりと美しい。その上紅白粉の化粧をして、さても艶やかな』とありますが、どういう意味でしょうか?」と質問した。
孔子は、「絵で云えば、彩色を施した後に胡粉で仕上げをするようなものだ」と答えた。
子夏は、「なるほど!礼は人の仕上げのようなものですね?」と問い返した。孔子は、「それは私にも気が付かなかった。商よ(子夏の名)、よく言ってくれた。やっと共に詩を語り合える仲間ができたかな」と云った。
女性の美ということになると、化粧でごまかせるところはあるかもしれないが、やはり元となっているところの「笑顔」や「目元ぱっちり」がまずは重要であり、その上で化粧を施せば「鬼に金棒」という喩えはわかりやすい。孔子は「仁」の重要性を強調しているが、それが「笑顔」や「目元ぱっちり」に該当するとすれば、「礼」は化粧だということなのだろう。昔CMであったが、「美しい人はより美しく」というわけであろう(「そうでない人」が「それなりに」かはわからない)。
「礼」そのものがどういうものか、あまり詳しくはわからない。ただ、言葉通り「礼儀的なもの」と考えるのであれば、「化粧的なもの」という風に例えることも何となくわかるような気がする。それはたとえば言葉遣いであり、特に日頃職人さんと接していて感じることである。職人さんと言えば、腕一本で食っている人というイメージであるが、例えば大工さんなど建設業界で働く職人さんである。
何となく以前から感じているのであるが、職人さんは言葉遣いが悪い。と言ってもさすがに施主さんとかお客さんに対しては丁寧な言葉遣いをするが、職人さん同士の会話となるとまるで喧嘩をしているのではないかと思うような時がある。そこまではいかなくてもよく喧嘩にならないなと思うこともある。私なんかは職人さん同士の調子で会話されたらとても穏やかではいられない。内々の共通語なのかもしれないが、言葉遣いで印象は大いに変わると思う。
言葉遣いとなれば、「モノは言いよう」ということもある。同じことを言うのでも、その言い方ひとつで言われた方の気分が大きく変わるということは日常茶飯事である。私なども妻の一言で幾度となくカチンときた経験があるが、モノの言い方1つで気持ちよく頼まれたことをやれるのにと思うことはしばしばである。たぶん、同じように感じる人は多いだろうと思う。
話は飛ぶが、大学時代、ラグビーの公式戦となると、正装(当時は揃いのブレザーなんてなくて学生服だった)して臨むのが慣習であった。ジャージも公式戦の時だけ赤黒模様のチームジャージで、それは公式戦の時のみ着用となっていて、練習試合では絶対に着用しなかった。そうすることで、「公式戦」というものに箔をつけていたとも言える。相手に対しても礼を正している姿勢を示したのである。
もちろん、大事なのは中身であることは言わずもがなであるが、きちんと装うことでその中身に重みを与えることはできる。昔からおしゃれに無頓着で、というよりも苦手意識しかない私であるが、よくよく考えてみるとある程度のおしゃれは「化粧」と同じと言えるかもしれないと思う。一応、冠婚葬祭には礼服を着ていくし、仕事のスーツは身だしなみも考えている。ただ、普段着は無頓着だ。デートの時とは言わないが、娘と出掛ける時くらいは考えないといけないかもしれないと思えてくる。
そんなあれこれを考えると、ここで「礼」の重要性が説かれているのもよくわかる。それは確かに人の仕上げのようだとも言えるし、社会の潤滑油のようでもある。さらに言えば、相手に対する敬意もそうだと言える。「化粧」はあくまでも「化粧」であって、大事なのは中身。されどその中身を引き立たせるためには「化粧」も必要。中身良ければすべて良しではなく、「化粧」の部分も重要性は変わらないと言える。2,500年の時を経ても、社会における真理というものは変わらないものだと改めて思う次第である・・・
【本日の読書】
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