2018年2月28日水曜日

断る選択肢

先日読んだ西野亮廣の『革命のファンファーレ-現代のお金と広告-』という本の中で、「選択肢」について語っているところがあり、興味深く拝読した。それはある番組の収録中に、ディレクターの態度に頭にきた西野氏が帰ってしまったそうであるが、それを受けて他の方が「私なら残ります」と言ったことに対し、「帰るという選択肢を持たないのにそういうことを言うんじゃない」というところである。

 西野亮廣は芸人でありながら、絵本を(チームで)創作したりするなど多彩な活動をしている。そういう収入の裏付けがあるから、(今後テレビに呼ばれない)リスクを跳ね除けて帰れるのだと言う。テレビに呼ばれなくなると困る人は、そもそも帰ることなどできないから「私なら残ります」としか言えないのだと。たとえ心から「私なら残ります」と思っていたとしても、「帰るという選択肢を持たない人の言葉に重みはない」と断じるのはまさにその通りだと思う。

 実は私も今仕事である受注仕事を断ろうと考えている。というのも、依頼主との間でどうもお互いの考え方に齟齬があり、はっきり言ってその仕事を受けるのは心地よくないのである。選択肢は単純に二つ。「我慢して続ける」か「誇りを持って断る」かである。ここで後者を選ぼうとしているのである。さすがに途中で放り出して迷惑をかけるような断り方をしようとは思わないので、一段落するタイミングで近々申し入れる予定である。

 仕事なんだから多少の我慢はすべきだという考えも当然あるだろうし、大半の人はそうしているのだろう。同業の知り合いは、「自分たちは(委託先の)奴隷だ」と自虐的に語っているが、それこそが選択肢がない証だろう。「仕事とはそういうものだ」という意見もあるかもしれないが、個人的には「そうだろうか」と思う。信念もなくただ依頼者のためだけに右往左往しながらもみ手すり手で仕事をしなければならないとしたら、仕事も好きになれないし、だから「子供には継がせたくない」などと言うセリフになって出てきたりするのだと思う。

 自分はこういう考え、思いを持って仕事をしている。その考え方に共感してくれる取引先と一緒に仕事をするというのはある意味理想である。そんな理想通りにはできないと言えるが、一方そういう仕事をできるようにしたいとも思う。それには何より「ゆとり」がないといけない。断った後、経済的に困った事態になるのであれば、四の五の言わずに「奴隷」になるしかない。

 幸い、今の会社には業績の回復もあってそういうゆとりがある。ならばそういう理想的な仕事を追求しようと思うだけである。そういう理想を掲げて、そういう理念に共感してもらって仕事を受けるという形にできれば理想的だし、それがまた自分たちの仕事のPRにもなるかもしれない。会社の仲間たちにかかるストレスも軽減されることだろう。そんな理想の下、胸を張って仕事を断りたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪 (月刊Hanada双書) - 小川榮太郎 チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫) - スベトラーナ・アレクシエービッチ, 松本 妙子




2018年2月25日日曜日

仕事で意識している3つのこと

銀行員時代、お世話になったある支店長が、着任時にこれからみんなに意識してほしいこととして3つのことを挙げられた。1つは「スピード、スピード、スピード」であり、とにかく早くやることだった。残り2つは残念ながら忘れてしまった。その時、自分もいつか支店を任されるようになったら、どういうことを挙げるだろうかと漠然と考えた。それまでに決めておこうと。

結局、そういう機会はなく今日まで来てしまったが、今だったらなんという言葉を使うだろうかと考えてみた。それは次の3つになるだろう。
  1.情熱:Passion
  2.創意工夫(考える):Thinking
  3.スピード(すぐにやる):Speed

1の情熱には、以前にも書いた通りであるが、これがすべての基礎と言えるだろう。逆にこれがなければ「2」も「3」も生まれてこない。仕事が辛いと感じるか否かの差もここから生じると思う。

 2の創意工夫については、言い換えれば「考える」ということに尽きる。1の土台の上に成り立つが、ただ闇雲にやればいいというものではない。同じやるにしても少しでも効率的なやり方はないかとか、効果的なやり方はないかとか、目的を成し遂げるためには必ず必要になる。サラリーマンで多い「指示待ち族」にはこれが決定的に欠けている。自分でも常に意識していることだし、仕事を「やらされてやる」のではなく、「自分からやる」にはこれが必要である。

 そしてスピードは、先の支店長にうるさく言われ、自分でも大事だと実感したから唯一覚えていることである。転職してまず感じたのが、「この会社にはスピード感がない」ということ。銀行員時代は、恐竜が如く何をするにしても意思決定が遅かった。新しいことをやろうとすれば、説明とハンコがたくさん必要だった。中小企業なら即断即決で(動こうと思えば)動ける。されど、動きが鈍い。

 それは普段からの意識にもよるだろう。常にアンテナを張って意識していれば、それに引っ掛かってくればすぐに動ける。人間は基本的に保守的だから、新しい事態に直面するとどうしても動きが固まる。迷いも出る。すぐに決めなくてもそのうちいいアイディアが浮かんだりするかもしれないと思ったり、時間を置くことで慎重に考えている気分になれるのかもしれない。だが、大半はただ決断が下せないだけというケースがほとんどである気がする。

 考えるに慎重になるのは悪いことではない。それは大いに推奨されるべきであるが、迷うにしても判断を下すのに何が必要なのかを見極め、すぐにそれを潰すべく動くなら問題はない。問題なのは、その場でグズグズしていることである。何と何が分かればすぐに判断が下せるというならすぐその情報を集めればいい。すぐに情報を集めてすぐに決断を下せば良い。間違えたと思ったらすぐに撤回してやり直せばいい。そのスピード感が大事だと思うが、時間をかけると何か慎重に考えた気分になれるのかもしれない。

今の自分だったら、この3つをキーワードとして部下に意識させるだろう。何事につけても事あるごとに言って聞かせていれば自然と身について来るだろう。いつも思っているのは、スポーツも仕事もチームプレーということでは同じだと思う。目標を設定したら、それに対してどう取り組むか。それにはこの3つが必要であるとつくづく思う。

今頑張っていれば、いずれ社員も増えていくだろう。その時に、このキーワードを意識してチームプレーができる組織になっていたらいいなぁと夢想するのである・・・




【今週の読書】
 大前研一 日本の論点 2018~19 - 大前研一  世界の最新医学が証明した 究極の疲れないカラダ - 仲野広倫  チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫) - スベトラーナ・アレクシエービッチ, 松本 妙子







2018年2月21日水曜日

裏事情

いつもテレビ東京の『ガイアの夜明け』と『カンブリア宮殿』は欠かさずに観ているが、観るのはもっぱら週末。録画しておいたのを観る形だ。そしてここのところ溜め込んでいて、ようやく先日1212日放映分の『ガイアの夜明け』を観た。タイトルは『“絶望職場”を今こそ変える!』である。その中で、ある縫製工場の外国人労働者のひどい仕打ちが紹介されていた。

被害者は、中国人実習生の女性5人。10人の仲間と2年半にわたって岐阜県の縫製工場で働いてきたが、1日平均15時間労働、土日も休みなく不当な低賃金で服を縫い続け、正規に計算すれば支払われていたはずの賃金は一人当たりおよそ630万円。たまりかねて待遇改善を求めて岐阜一般労働組合に助けを求めたところ、不利を悟った縫製工場は女性たちを解雇し、会社も破産申請してしまう。経営者は同じ場所で別会社を立ち上げて事業を継続している。実態は同じでも法的には別の会社なので、賃金の支払い義務はなくなる。債務逃れでよく使われる手である。

縫製工場には弁護士もついていて、当然ながら「合法だ!」と言って憚らない。金融債務では、社長を連帯保証人に取るから簡単には逃げられないが、給料のようなものは形式上会社を潰してしまえば支払いを逃れられる。余談だが、だから中小企業では社長の連帯保証は必須なのである。「連帯保証害悪論」を唱えている素人はこのことが理解できていない。この中国人たちは、かわいそうだが法的には絶望的だと思う。

ひどい経営者にそれに加担するひどい弁護士であるが、それだけだと表面的な気がする。経営者も確かにひどいが、その背景にはアパレル不振とそれに基づく、とにかくコストを抑えようとするアパレルメーカーの下請けいじめがあると思う。縫製料を安くしなければ受注できない。安くするためにはコストを下げなければならない。なるべく安くするには、弱い立場の中国人から搾り取るしかない。

アパレルメーカーにしても、先日読んだ『誰がアパレルを殺すのか』にもあったが、バブル崩壊以降、2/3に縮小した市場で生き残るには、製品価格を抑えなくては製品が売れない。ネットを活用して駆け上がる新興企業ならいざ知らず、恐竜のように動きの鈍い伝統企業では製品の値段を抑えるにはとにかくコストダウンしなければならず、有効な手段を思いつかないから下請けを叩かざるを得ない。下請けでどうやってコストダウンしているかなどは、純粋に知らないのか意図的に見ないようにするしかないのだろう。

また、悪質な縫製工場に加担する弁護士にしても、悪質な債務逃れであることは重々承知しているだろう。それでも引き受けるのは、もしかしたら苦しい懐事情もあるのかもしれない。制度改革で弁護士も数が激増しており、その割に仕事が増えているわけではないからとにかく仕事が欲しい。今や弁護士だから左団扇とはいかなくなっている。アップアップしている弁護士からすれば、生活の為ならそういう悪質案件でも受けざるを得ないのかもしれない。

 自分だって追い込まれたら、そういう行為をするかもしれない、と思う。独り身ならプライド優先で高楊枝でいられるかもしれないが、家族がいればそんなことを言っていられないと思う。縫製工場のひどい経営者もそれに加担する弁護士も、いつか陥る自分の姿なのかもしれない。まぁ、この番組の縫製工場は工場を立て替えていたから、やむにやまれずとは言えず、やっぱり弁護の余地はないであろう。要は「ボロを着てでも」きちんとやろうと思うかというモラルの問題だ。

 自らがそんな窮地に陥るかどうかはわからないが、たとえなっても人を踏みつけて仕事するというのはやっぱり快くない。窮地に陥っても、仲間と苦難を共にするようにしたいと今の時点では思う。いつも意識しているように、関わった人を幸せにするように働き続けたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 大前研一 日本の論点 2018~19 - 大前研一

2018年2月18日日曜日

論語雑感 為政第二(その19)

哀公問曰。何爲則民服。孔子對曰。舉直錯諸枉。則民服。舉枉錯諸直。則民不服。
哀公(あいこう)()うて()わく、(なに)()さば(すなわ)(たみ)(ふく)せん。(こう)()(こた)えて()わく、(なお)きを()げて(これ)(まが)れるに()けば、(たみ)(ふく)せん。(まが)れるを()げて(これ)(なお)きに()けば、(すなわ)(たみ)(ふく)せず。
【訳】
哀公がたずねられた。どうしたら人民が心服するだろうか。先師がこたえられた。正しい人を挙用してまがった人の上におくと、人民は心服いたします。まがった人を挙用して正しい人の上におくと、人民は心服いたしません
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論語に限らずであるが、格言めいた言葉や話を聞くとなんとなく自らが置かれた環境に当てはめて考えてみたくなる。今であればまず会社のことが思い浮かぶ。その次にラグビーのチームだったり、これまで所属していた組織だったりであろうか。今回の言葉からは、かつて所属していた銀行の部署が脳裏に浮かんだのである。

訳し方の問題はあるだろうが、「正しい人を挙用してまがった人の上におく」とは、要は「ふさわしいリーダーがいるか」ということだと思う。リーダーが納得のいくリーダーシップを発揮していれば、メンバーも納得して仕事ができる。そういうチームの士気は高くパフォーマンスもいいと思うが、そうでなければメンバーのモチベーションは下がり、チームとしてのパフォーマンスも下がってしまう。

そんなことを考えていたら、最近子供達が「痛快TVスカッとジャパン」というテレビ番組をよく見ていて、その中で長嶋一茂が演じる「社長のバカ息子」のコーナーを思い出してしまった。長嶋一茂が社長の息子として店長や部長などとして登場するのだが、理不尽な指示だけで自分は何もせず(できず)、部下たちが閉口するというものである。そして最後は社長に怒られてみんなスカッとするという展開なのであるが、まさに今回の言葉の典型例であると思う。

自分が思い出した銀行員時代の上司は、長嶋一茂の演じたようなどうしようもない上司などではない。流石にメガバンクとなると、みんな基本的には優秀である。ただ、いかんせん銀行というところは減点主義の組織だったせいか、よく言えば「保守的」、悪く言えば「風見鶏」的な人が少なからずいた。その上司もまさにそんな典型の人で、その人の部下時代はなかなかストレスも溜まって大変であった。

その時の私の上司の判断基準は、というと「部長がなんて仰るか」ということであった。その課長にとっては、「自分はこうすべきと思う」ということよりも、「部長がどう判断するか」ということが大切なのであった。私は、と言えば、まず「自分が(我々としては)こうすべきであると思う」ということを考え、そのようにすべきと上司には進言していたが、風見鶏課長にとっては、そんなことより「部長が何と仰るか」の方が大事なのであった。

それは今流行りの言葉で言えば「忖度」である。しかしそれが悪いかと言えばそうとも言い切れない。自分が部長の立場に立ってみれば、常日頃自分が示している考え方に沿って部下が動いてくれるのは理想である。そういう風に動いてくれる者であれば評価したくなるのも当然であろう。部下が好き勝手やって(うまくいけばいいが)、責任ばかり取らされてもたまらない。経営方針には当然全員が従わないといけないし、「忖度」も当然と言えば当然である。

ただ、風見鶏課長は大抵そんな深いところまで考えておらず、ただ単に信念のない風見鶏にしか過ぎないものだったし、部長も「チャレンジして失敗」するよりも「何もせずに失敗もしないこと」を重視する人だったから最悪であった。そういう部長・課長コンビに対しては、やっぱり「心服」できなかった。ただ、悲しいことに減点主義組織の中ではそういう行動こそが評価され、だから自分よりも上位だったのである。信念を貫いて低位に甘んじるか、信念よりも組織力学に合わせて登っていくか、これはなかなか難しい。

結局のところ、論語的に言えば「誰をリーダーにするか」という問題を考える時、ただ単に年齢が上だったり、自分のいうことをよく聞く愛い奴であったりということを基準にしないということなのだろう。多数の中から選べる環境にあればそういう者を選べば良いし、選択の余地がなければ教育するしかない。「自分から見てどうか」という視点だけでなく、「下から見てどうか」という視点を持たなければならないというのが、今回の言葉から感じられる教えである。

まったくもってその通りだと思う。思えば銀行員時代は「不器用」だった自分だが、そんな自分への慰めとしたいし、これからを考えるとそういう考え方ができなければいけないと思うし、それを心掛けていたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 革命のファンファーレ 現代のお金と広告 (幻冬舎単行本) - 西野 亮廣








2018年2月14日水曜日

勧められたなら

「人から何か勧められたらとりあえず試してみる」ということは、私の基本的なポリシーである。他人に何かを勧めるという行為は、もちろん好意からのものであるし、何よりその人が自分でいいと思ったからに他ならない。それならその好意を無にするというのも大きな損なのかもしれない。試すことに大きな負担があるのであれば別であるが、そうでないのならば、「とりあえず試してみる」のは良いことだと考えている。

例えば今は好きな作家の1人である藤沢周平もそんなお勧めがきっかけだった。以前、銀行員時代に読書好きなお客さんがいて、その方が藤沢周平が好きだったのである。「読んでみると良いですよ」と勧められたのが、「蝉しぐれ」であった。これをさっそく読んでみたところ予想外に面白く、以来藤沢周平の時代劇は私の愛読書になった。正直言ってそれまで本は読んでいたものの、時代劇は何となく敬遠していたのである。もしも勧められていなければ、絶対読んでいなかったであろう。

最近では、映画『ちはやふる』であろうか。高校生の青春モノ、しかもカルタというマイナースポーツを扱った映画であり、まず自分からは間違いなく観ないタイプの映画であった。ところが、映画好きの友人が絶賛しており、それで「とりあえず試してみるか」と思ったのである。その結果、自分の中では2017年のベスト1になってしまった。観なければ人生の大損だったと思っている。

映画や本はいろいろと勧められることが多い。もちろん、すべてが大正解というわけではない。先の映画好きの友人が絶賛していた映画は、『ちはやふる』に留まらず、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』『ハドソン川の奇跡』があったが、これはそれほど心にヒットしなかった。と言っても面白くなかったわけではなく、「期待度が大きすぎた」結果だと思っている(映画自体は両方とも面白かったのは間違いない)。

その他、「これ美味しかった」というのは数知れず、「ここ面白かった」、「ここ良かった」というのは枚挙に暇がない。片っ端からというわけにはいかないが、すぐに買えるものならすぐに試してみるし、行ける所なら友達を誘って行くし、やれるものならやってみている。それによって損をしたという記憶は今までないし、逆に自分だけでは試してみなかったことなどは、それを試すことによって自分の世界が広がったと感じている。

逆に人に勧めるのはというと、あまり積極的ではない。もともとめんどくさがり屋なところがあり、お節介も嫌だというところがある。話の流れでおススメを聞かれて答えるというパターンが多いかもしれない。最近では友人におススメ映画を聞かれて『ちはやふる』と答えたが、その友人も好みの範疇に入っていなかったらしく、唸っていた。その気持ちは良くわかるだけに、彼が観るかどうか、そして観たとしたらどういう感想を持つか、ちょっと楽しみな気もする。

自分から人にあまり勧めないのは、「勧めた以上、その感想を期待してしまう」ということがある。喜んでもらえたなら嬉しいし、趣味に合わなかったらそれはそれで仕方がない。ただ、試してもらえなかったら、ちょっとがっかりする。それが嫌だという気持ちもある。だから、自分が人から勧められたらまず試してみて、そしてその感想を伝えるように意識している。それが(たとえお節介だとしても)勧めてくれたことに対するお礼であると思う。

自分の世界というものは、いつの間にか決まってしまう。気がつけば同じような嗜好の世界に浸かってしまっている。人から勧められることは、その世界の殻を破ることになり、自分の世界を広げることになる。その効能はかなり大きいと感じる。勧めてくれた感謝と感想を伝えれば、また次のものを勧めてくれるかもしれない。そしてそれによって自分の世界も広がるかもしれない。そういう試みをこれからも続けていきたい。

そのためにも、「勧められたらまず試してみる」というスタンスをこれからも維持したいと思うのである・・・



【本日の読書】
 革命のファンファーレ 現代のお金と広告 (幻冬舎単行本) - 西野 亮廣 凶獣 (幻冬舎単行本) - 石原慎太郎





2018年2月11日日曜日

あるセールスの電話を受けて


先日、仕事中に電話を取っていた時のことだ。「東京電力の検針の件ですが・・・」という電話を受けた。担当がいなかったので代わりに聞くと、「検針票を見て欲しい」と言う。何かミスでもあったかと探そうとしたら、我が社の入っているビルは管理会社が一括して対応していると判明。それを説明した途端、電話が切れた。なんの言葉もなく。一瞬、誤って切ってしまったのかと思ったが、やがてセールスの電話だったと気がついた。管理会社が管理しているなら話しても無駄だとわかり電話を切ったのだろう。あまりの出来事に呆れて腹も立たなかった。

中小企業に転職以来、セールスの電話をよく受ける。それはそれでいいのだが、中には詐欺まがいのものがある。別の電話では、「インターネット回線の更新の件なのですが・・・」と言うが、相手の社名に心当たりがない。突っ込んで追求すると「セールスです」と認めた。それならそうとわかるように説明しないとと思うのだが、そうすると断られるからいかにも今利用しているもののように装うのだろう。

しかし、当たり前だが、そんなことで誤魔化せるのは入り口だけである。それと分かれば同じこと。それよりセールスならセールスで、工夫をすれば相手の懐に飛び込んで契約を勝ち取るのも困難ではない。事実、私もそう言うセールスを受けて契約したものがいくつもある。適切なセールスは無駄ではないのである。では、なぜそういうセールスをせず詐欺まがいの話法で電話をして来るのだろうと考えてみると、一言で言えば「門前払いばかりだから」であろう。

相手も競争の中で一生懸命なのだろうが、闇雲に電話をすればいいと言うものではないだろう。創意工夫がなければ無駄だろう。下手な鉄砲をいくら撃ったところで当たる確率は限りなくゼロに近いだろう。社長も「やれ」と言うだけで具体的な指示などできていないのだろうし、電話をかけて来る営業マンも輪をかけて工夫もなく電話をするだけ。断られてばかりなので、断られないように「誤魔化し話法」を取るのだろう。そんなのでたとえ入り口は誤魔化せたとしてもそのあとダメになるのではないかと思うのだが、世の中はそれでも契約してしまう人がいるのだろうかと思ってしまう。

もう少しまともなセールスができないと、会社の業績も上がらないだろうと思うのだが、だから業績も上がらないのかもしれない。上はただ馬鹿みたいに「やれ」と言うだけ。そしてそんな会社にしか入れない社員に創意工夫などできるわけもなく、成果も上がらない。門前払いが続けば精神的にもキツイから電話だってダメと分かれば何も言わずに切る。そんな会社の提供するサービスがいいものであるわけもない。

今はナンバーディスプレイがあるから相手の電話番号がわかる。電話を切られてからディスプレイに残っていた番号をググって見たら、同じような「被害者」の怒りの口コミに溢れていた。当然、そんな会社のホームページなんてあるわけがない。そういう会社がろくな会社であるはずもなく、社員だってろくな社員ではないのだろう。そんな会社の社内を想像してみるに、かなり荒んだもののような気がする。一度見学してみたいものである。

そういう会社でしか働けないのは気の毒な気もするし、一方でどんな仕事でも熱意と創意工夫とがあればいくらでもいい仕事はできるはずという自分の信念もある。結局、そういう仕事しかできない人がトップに立ち、そういう会社にしか入れない人が入社して、社会の迷惑となるような仕事しかできない会社になっているのだろう。もって他山の石とするにも至らないレベルである。

今度そんな電話がかかってきたら、やり方を教えてあげようかとも思う。心ある者なら耳を傾けてくれるかもしれないが、そこで耳を傾けて来るぐらいならそもそもそんな詐欺話法を平気で使わないかとも思う。
まぁくだらないことを考えていても仕方ない。そういう電話に心を乱されることなく、業務に専心したいと思うのである・・・