日本人は議論下手だと言われる。
国際会議などになると、それが顕著に表れるそうである。
なるほど、それはよくわかることだと思う。
私自身はというと、平均よりは議論上手だとなんとなく思う。
物事は筋道立てて考えるのが好きだし、筋の通らないことを言うのは嫌いだし、自分の語る内容は、筋道立てて論理的だと思う。
だが、それがかえって災いすると感じることが多々あるのも事実である。
「議論下手」の背景は、「以心伝心」、「目は口ほどにものを言い」の文化だろう。
「世の中理屈じゃない」、「正論がすべてではない」とは私もよく言われるし、耳にもする。
そしてそのたびに理不尽な思いをさせられる。
「理屈じゃなきゃ何なんだ」、「正論が通らない世の中ってなんだ」と思わざるを得ない。
「お前にとっては正論でも他人には違う」
それもその通りである。
だから互いに正論をぶつけ合い、議論すればいいのである。
そうして論理的に考えていけば、どちらの意見がより正論かということがわかる。
つまり、「正論が通る=(正論がすべて)」なのである。
要は単に自分の意見が筋が通っておらず、途中でおかしなことに気付いたが、そのまま引っ込みもつかず、最後は「世の中正論じゃない」と逃げているだけのように思う。
しかし、人は感情の生き物である。
好き嫌いは理屈ではない。
いくら正論を主張されても、受け入れられないものは受け入れられない。
そういう場合、いくら正論を吐いても通用しない。
私が親に疎まれるのも、常に徹底して正論を強く主張するからである。
論理的に反論してくれれば、筋道立てて考えて納得できなければさらに意見を返せるし、それは多分健全な議論になる。
ところが、返ってくる反論が「非論理的」なものだとそうはいかない。
ところが、返ってくる反論が「非論理的」なものだとそうはいかない。
当然、論理的に考えていくと納得できるものではない。
そこで大事なのは感情的なもので、論理は関係ない。
それにそもそも論理的に考えることに対する拒絶感もあると思う。
「考えるのがめんどくさい」という知的に怠惰な態度である。
学校の教育の影響もあるのかもしれないが、こういう人はかなりいる。
また、話は好きなのだが、何を言わんとしているのかよくわからないというパターンもある。
質問と言いながら、長々と自説を語り、結局話の要点がわからないというパターンである。
目上の人に意見を言う場合や、仕事などでは筋の通った話をするのは当然だと思う。
だが、それで親をいつも追い込み嫌な顔をされているのも事実であるし、仲間内で話をする時も、「また始まった」という反応をされるのもよくあること。
わかってはいるが、それを避けようとするともう黙るしかない。
議論の文化が育たないわけである。
「これからはグローバル社会だから」と子供に英語を習わせる親は多いだろう。
だが、たとえ英語が話せても論理的思考ができなければ、当然外国人と議論などできないだろう。
そうした論理的思考を養うためには、国内で親がしっかりと子供と筋道立てて話をする習慣をつける必要があるのではないだろうか。
少なくとも「世の中正論がすべてではない」などと言って感情論で押さえつけるような真似をしていてはいけない。
人と人とのつながりは、心と心とのつながりであり、理屈の世界ではなく感情の世界である。
それは十分に理解できるが、議論すべき時はしっかり議論できるようでないといけない。
たとえ疎まれても、自分の考えはこれからもしっかり論理的に主張していくことはやめないだろう。
たとえそれで嫌われても、だ。
そこは「感情論」として譲れないところだ。
そんな風に思うのである・・・
【本日の読書】
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