2015年8月5日水曜日

今からの終活

 伯父の葬儀に参列して、改めていろいろなことを感じた。亡くなった伯父の息子(つまり私の従兄)が、葬儀にまつわるあれこれを教えてくれたのである。

 まずは当然ながら事前の準備などできない。葬儀屋の手配も紹介されるまま。たまたま地元の互助会のようなところに入っていたからディスカウントが受けられたそうだが、そうでなければ費用負担に頭を抱えたらしい。そんな話を聞くと、自分の親の時のことを改めて想定しておかないといけないと思う。

 葬儀は曹洞宗の僧侶が来てお経をあげてくれた。そう言えば以前、母から実家の宗派は浄土真宗だと聞かされていたような気がしたが、と思っていたら実はそれは勘違いで、従兄があれこれ調べたところ、曹洞宗だとわかったらしい。今は「檀家制度」など、縁遠くなってしまっている。親父の宗派も確認しておかないといけない。

 だが、自分の時はどうなるのだろうと思い至る。初詣などで神社には行っているが、お寺にはとんと行っていない。親父の実家を調べれば宗派はわかるが、生前まったく縁遠かったのに、この時ばかりお世話になるのもいかがなものかという気がする。たまたま隣に座っていたへそまがりの叔父に聞いたら、「自分の時はだから坊主なんて呼ばなくていいって言ってるんだ」と期待通りのへそまがりな回答。叔父の葬儀の時がどんな様子になるのか、今から楽しみである。

 それにしても、自分の時はと改めて考えてみるが、やっぱり神道形式がいいかもしれないと思う。初詣を始めとして、地鎮祭やお宮参り、七五三に厄除けとかなりお世話になっている。神社にお願いするのが、筋という気がする。そうして八百万の神々の末席に加えてもらって、道端の雑草の担当神をさせてもらうのもいいかもしれない、などとお気楽に思う。

 次に聞いたのが、戒名。伯父のそれはお経をあげた僧侶ではなく、生まれ育った故郷のお寺に戒名を頼むのだとか。だが、それもお値段があって、高価な文字を使うと値段が跳ね上がるらしい。そもそも戒名とは、死んであの世に行った人が仏様の弟子になるための名前だとか。仏様ともあろう方が、名前でお弟子さんに差をつけるとも思えない。そう考えると、高価なお値段は仏様というよりは、それに仕えている(と自負する)お寺さんへの経済的な援助であって、あの世で故人に何かご利益があるというものではないのだろう。お世話になっているお寺さんならともかく、そうでないなら最低ランクで十分だし、そもそも仏さまへの弟子入りがいいのかどうか、考えてみる必要がある。やっぱり、神様の下へ行った方が良さそうである。

 さらに骨壷にも種類があって、一番高価な大理石になると、50万円くらいするらしい。重いのが欠点らしいが、頑丈なのが売りらしい。何でも東北大震災の時も、大理石の骨壷は割れなかったというのである。まさか骨壷にも「耐震性」が歌われるとは思わなかったが、長期保管するものでもなし、割れてもいいじゃんと思ってしまう。

 親の時は普通にやるとしても、自分の時はいろいろと指示書を残してやっておいた方がいいなと思う。古くから伝わるものを疎かにするつもりはないが、別に義理立てするようなお寺さんもない。どうせなら、神社にお世話になったお礼をしたいと思うのがごく自然だと思う。家族には、「へそまがり」と思われるだろうが、そんな心づもりを今からしたいと思うのである・・・


【本日の読書】
投資は「きれいごと」で成功する――「あたたかい金融」で日本一をとった鎌倉投信の非常識な投資のルール - 新井 和宏 ザ・ラストマン 日立グループのV字回復を導いた「やり抜く力」 (角川新書) - 川村 隆 我が闘争 (幻冬舎文庫) - 堀江貴文





  

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