2013年10月29日火曜日

ラグビー観戦

 週末の日曜日は久しぶりに母校の大学のグラウンドへ足を運び、後輩たちの公式戦の応援に臨んだ。「ラグビーは冬のスポーツ」というイメージが、かつて世間には広まっていたが、実際のところは今がシーズン真っ盛り。4年生にとってみれば、残りあと一ヶ月ちょっとの現役生活。本当は、現役の試合前にOBの試合があったのだが、春先に痛めた足がいまだに調子悪く、今回は参加を断念した。

 スポーツの秋という言葉がぴったりするような好天気。じっと観ていると少し寒いが、試合に出る者にはちょうど良い気候だろう。このところ、ラグビーと言えばテレビ観戦ばかりであったが、グラウンドに足を運んでナマで観戦するのがやっぱり一番。選手たちの息遣いや、テレビには写らない動きなどがよくわかるという利点がある。

 試合前には、相手の実力をあれこれと想像するものである。今シーズンそれぞれ同じ相手と戦ってきており、その結果を見て少しでも有利な点を探そうとするのである。例えば同じグループで、実力一と想定される立教大学に、うちは17-58で負けているが、今回の相手は14-80で負けている。それだけ見れば、うちの方が“理論上は”強いとなるわけである。

 もちろん、そんなのは気休めでしかないのであるが、それでもその気休めが少しの自信となる。やる前は、「絶対勝つ」と強く思うものであるが、ただ思い込むだけでなく、相手より少しでも有利な点を見つけ、勝てるという自信に加えたいものなのである。過去の対戦成績が良くない相手であれば、尚更そう思うのである。

 試合前の軽いアップが終わり、キックオフの瞬間が近づく。選手たちはキャプテンを中心に円陣を組んで、出陣前に気持ちを高める。キャプテンがメンバーにかける言葉に、みんなが絶叫で応える。かつては自分もあの円陣の中にいたのだ。見ているこちらも自然と胸が熱くなる。

 キックオフで試合が始る。最初のうちこそ卒業後にできた観覧席に大人しく座って観ていたが、やっぱり立って観る事にした。その方が随時移動して好きなポジションで観る事ができる。観ているOBたちからも、時折檄が飛ぶ。私の場合、性格もあるのだろう、こういう時は黙ってじっくり観る。

 しかしながら、観るのも苦痛に思う時がある。「自分だったら・・・」ともどかしく思ってしまうのである。もちろん、かつてならともかく、今の自分がグラウンドに出ていっても大した事はできない。頭の中の自分はいまでも最高のプレーヤーだが、哀しいかな肉体は遥か後ろに置いてきぼりだ。

♪同じゼッケン誰かがつけて、また次のシーズンをかけていく♪
ユーミンの「ノーサイド」の歌詞が脳裏に浮かぶ。やっぱり、背番号「6」の選手に目が行く。自分と比べてどうだろう。それにしても、果たして一体今までに何人の選手があの番号をつけたのだろう。そのうち大集合したら面白いかもしれない。

 月に一回、老OBが集まったシニアチームが練習をしている。私もこの春から参加している。かつては、「タックルができなくなったらラグビーはやるものではない」とうそぶいていたが、「まあ、そうカタイ事言わず、ランニングの延長だと思って」やる事にしたのである。でもやっぱり心のどこかで、まだガンガン当たる激しい試合をしたいと思っている自分がいる。

 ハーフタイムに席に戻り、2つ上の先輩と話をする。仕事の事少々、子供の事半分、その他諸々。先輩の子供が、私の母校である都立高校を希望していると聞く。残念ながらラグビーではなく、野球が希望らしい。さすがに、昔みたいに女の話はしない。

 善戦空しく、後輩たちは惜敗。そう言えば、自分達も4年間勝てなかった相手だったと今さらながら思う。負けはしたものの、日頃よく練習しているというのは、試合を観ていればよくわかる。冷静に考えてみて、もしも自分達が現役の頃のチームと今の現役とが試合をしたら、たぶん今の現役の方が強いような気がする。

 いくら練習していても、相手のある話だから仕方がない。また次の試合に期待したいところだ。試合は残念だったが、久しぶりに母校のグラウンドに行き、もはや人工芝グラウンドで懐かしい土の匂いと枯れた芝の匂いを嗅ぐ事はかなわなかったが、何となくあの頃のエネルギーが湧きあがってきた気がする。

 また一週間、「めげず・くじけず・へこたれず」頑張ろうという気になって帰ってきたのである
・・・
    



【本日の読書】
「これから」を生きるための授業 ハーバード・ビジネススクール 昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰






       

2013年10月24日木曜日

雑感記録

 日々あれこれと感じている事、考えている事を綴る事にしたこのブログ、最近更新頻度が減ってしまっている。書く事がなくなってしまった訳ではなく、ただ時間がないのである。記録される事なく、消失してしまっている己の雑感が、ちょっともったいない気もする。と言っても、実はそれほど大した内容ではない事が大半である。

 今週は仕事で外出し、某JRの駅前でチラシを配っている白衣の女性を目にした。ついいつもの癖で、チラシはもらわずにスルーしてしまった。通り過ぎながら耳にしたのは、「マッサージ」という言葉。どうやらマッサージ店のPRだったようである。

 駅前でチラシを配っていると言う事は、まだ「お客さんが多くない」という事だとすぐ思う。お客さんが十分来ていれば、チラシなど撒く必要もない。またチラシを配っていたのが、白衣の(中年の)女性だと言う事は、おそらく施術されるご本人。しかも年齢からすると、「雇われている」人というより、オーナーご本人かあるいはその共働きの配偶者なのかもしれない。アルバイトを雇う余裕までないのだろうか、などと想像してみたりする。

 「てもみん」のようなチェーン店なら、アルバイトにやらせるだろうから、恐らくは独立系の個人事業者なのだろう。まだオープンして間もないのだろうか?駅前という事は、すぐ近くに、すなわち駅ビルなどの周辺に店舗があるのだろうか、それとも少し離れた住宅地だろうか。住宅地であれば、この時間(午後3時頃)に配っているのは何か戦略的な意図があるのだろうか、それとも単にお客さんがいなくて暇なのだろうか。どうせならサラリーマンをターゲットにし、朝の通勤時間帯にやっても良いのではないだろうか。この時間だと、お客さんが来たら留守番からすぐコールが来て店に戻るのだろうか。あれこれ想像が膨らむ。

 京浜東北線に乗り込む頃には、「チラシをもらっておくんだった」と後悔していた。そうすれば、あれこれと想像した事に、ある程度の答えが得られたはずである。いつもはゴミになるから受け取らないようにしているチラシ。受け取るのは、ティッシュ入りのものだけ(ティッシュ入りは我が家の奥様に、「とにかくもらえ」と厳命されているから条件反射的にもらっているのである・・・)。今度からもらうようにしようと思う。

 チラシをもらう事の効能は何だろうと次に思い巡らせる。まず上記のような想像の答え合わせができるだろう。それに例えその店に行かなくても、もらうだけでも配っている人は喜ぶかもしれない。長い時間配っていて、手にとってくれる人が少なければ、配る人の精神的な疲労も大きいかもしれない。さり気ないゴミ拾い以外の「一日一善」にしても良いかもしれない。

 そう思うと、よく我が街の駅頭で配っている政治家のチラシも、気になる政党以外にももらう方が良いかもしれない。たとえそれが嫌いな共産党であったとしても。という事を考えていたら、次の日その共産党の方がさっそくチラシを配りながら演説をしていた。「ブラック企業を規制します」というチラシだった。

 「サービス残業代は“倍返し”よっ」と「雇用のヨーコ」という名のキャラクターが宣言している。結構面白い。
「ブラックな実態を公表させる」
「パワハラをやめさせる」
と威勢が良い。
「どうやってブラック企業を見つけるのだろう?」
「生きがいを感じて進んで長時間労働している人はどうするんだろう?」などと思考は広がる。毛嫌いせずにチラシをもらってみたら、案外ちょっとした娯楽になったと気がついた。

 振り返ってみても、「思考の記録」なんて大げさなものではない。タイトルにある通り雑感記録なのであるが、そんな事もあとで読み返してみると、自分でも楽しめたりする。やっぱり、何とか時間を確保して、この「趣味」に没頭する一時を確保したいと思うのである・・・

【本日の読書】

昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰




 

2013年10月19日土曜日

好きこそものの上手なれ

 息子は今、ヒップホップダンスを習っている。その始りはまったくの偶然で、たまたま訪れたスポーツクラブでヒップホップをやっているのを見た息子が、「やってみたい」と言ったらしい。これから学校の授業でもやるようになると聞いたため、「それならやらせてみるか」となったのである。

 自分としては、ダンスなどに興味の“き”の字もなく、見るのもやるのも関心が湧かない。されど、だからと言って息子を自分の興味のある分野にだけ向かわせるのもどうかと思うから、まあ反対はしなかったのである。

 さて、そんな息子のヒップホップであるが、先週「発表会」があった。日頃の練習の成果を披露しようというわけである。妻はともかく、自分は普段の練習をまったく見ていない。だから、どんな様子なのかもわからないし、ヒップホップをどんな感じで踊るのかもわからないから、興味深々であった。

 そして当日。
いつもの教室をそのまま舞台にして子供たちが順番に登場する。息子は第一陣として登場。総勢20人くらいで、さらに4つのグループに分かれて順番に踊る。男の子は4人だけ。圧倒的に女子の世界である。目の前で子供たちが踊るヒップホップというのも、何だか微笑ましい。

 第一グループは幼稚園児くらいの女の子二人。息子は第二グループで登場。みんな小学校低学年くらいの男女4名ずつのメンバーである。音楽に合わせて踊りだすも、何だかぎこちない。何となく周りに合わせて体を動かしている感じで、それはほんのコンマ何秒か体の動きがずれている事からそう感じるのである。他の子も見ていると、それぞれでだいぶ印象が違う。

 中には「うまいな」と思わされる子がいる。子供たちは上は中学生くらいまでいるが、さすがに中学生くらいになると、「うまいな」と思わされる子も増えてくる。うまい子とそうでない子。その差は何なのだろうと考えてみた。

 観察していると、その差は「楽しそうか否か」であると感じる。「好きこそものの上手なれ」という言葉がある。好きな事をやっている時、人はその時間が楽しいし、あれこれいろいろやってみようとする。息子もお手伝いはおざなりにやってよくママに怒られているが、好きな怪獣遊びだと、周りにあるあらゆるものを基地や武器やその他もろもろに見たて、独自の世界を作り出していつまでも遊んでいる。

 踊る事が楽しくて、面白くてたまらないから、練習時間以外でも体を動かしているかもしれない。息子などは教室で練習する以外はやらない。その差は歴然。「音楽に合わせ、体が動いてしまう」子と、「音楽に合わせ、教えられた通りに体を動かそうとする」子と、同じダンスでも違うものになる事は容易に想像がつく。

 学生時代、ラグビー部に入っていた私は、いつも練習時間の1時間半前くらいにはグラウンドへ行っていた。全体練習が始まる前に、バーベルを上げたりしていたのだ。それは誰からも強制されたものではなく、自分でやりたかったからに他ならない。そういう事は、他の様々な事に当てはまるのではないだろうか。

 良い悪いではない。
決められた時間に来て、決められた時間に決められた通りに仕事をし、決められた時間に帰るという事が悪い事だとは思わない。ただ、少しでも違う事、プラスアルファの事をしようとして、人より早く来たり、人より遅くまで残っていたりして仕事をする人は、おのずと結果も違ってくるだろうという話である。

 息子は、ヒップホップに対してどう思っているのだろう。普段と違って親たちがたくさんギャラリーに居て、緊張と照れくささもあったかもしれない。あるいはもしかして、勢いで始めたものの、あまり興味が持てなくなってきているのかもしれない。好きになれる事なら続ければ良いし、そうでないなら他に目を向けるのもいいかもしれないとも思う。何せ運動神経自慢のパパでも、まったくアドバイスできない分野であるからである。

 これから折にふれ、コミュニケーションをとって気持ちを確かめながら見守っていきたいと思うのである・・・

【今週の読書】

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰





2013年10月12日土曜日

働く事について考えていること

日雇い派遣、禁止後1年で「解禁」議論なぜ?
 10月4日、政府の規制改革会議は「日雇い派遣」を解禁するよう求める意見書をまとめました。~略~
 日雇い派遣は、労働者と派遣元の契約が30日以内である短期の派遣のこと。仕事があるときだけ派遣会社と雇用契約を結ぶ「登録型」の派遣です。派遣元に常時雇用され、仕事の有無にかかわらず給料が支払われる「常用型」の派遣に比べると、不安定な雇用形態とされています。
 2008年、リーマンショック後の不況により、「派遣切り」「年越し派遣村」などが社会問題化しました。このとき「雇用を不安定にしている」として批判されたのが日雇い派遣でした。その後の「ワーキングプア(働く貧困層)」の増加もあり、労働者保護の観点から、2012年10月の労働者派遣法改正で原則禁止となりました。

THE PAGE 10月10日(木)10時7分配信 
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そう言えば数年前、だいぶ「派遣切り」の事が話題になっていたなと思いだした。
当時から何が問題なのかわからないと、このブログでも書いている。
「派遣斬り」
日本のマスコミは本質的な議論そっちのけで、自分の勝手な思い込みを大々的に拡散し、世論を操作する傾向があるから、ニュースの盲信には気をつけないといけない。
そんなわけで、働く事についていろいろと考えてみた。

働く形態はいろいろあっていいと思う。
例えそれしかなくて渋々就労するのだとしても、「あるだけマシ」という考え方もある。
そもそも「派遣」は、「解雇」を前提とした雇用形態だ。
“切られ”て文句を言うのはおかしいし、企業を批判するのも間違っている。
大企業に勤め、安定した雇用環境にある自分としては言い難い意見だが、それが事実だ。

そもそも人は自分の食い扶持は自分で確保しないといけない。
太古の昔からそうだし、今でも自分で仕事を作るなり見つけるなりしないといけない。
作れなければ見つけるしかないのだが、それには雇い主にうまくPRして仕事をもらわないといけない。雇用主を満足させられなければ、仕事を失う事になる。

日本は、ありがたい事に労働者が強く守られている。
一度雇用されると、企業側の解雇は簡単ではない。
だからいつしか労働者側に“甘え”が生じているのだろう。
その延長上で「派遣」をとらえるから、批判が出てくるのだ。

かつて、外資系の投資銀行の人たちと一緒に仕事をした事がある。彼らは1年ごとに査定があって、そこでダメとされれば即クビになる。求められるパフォーマンスを上げようとする姿は、少々の事ではクビにならない我々とは対照的だった。考えてみれば、プロ野球を始めとするプロの世界も同様だ。収入面での違いはあるだろうが、その精神は見習わないといけないと思う。

よく丸の内界隈で、赤い旗を振ってデモをしているのを時折見かける。外資系の銀行の前で、「不当解雇反対」と看板を掲げている集団を見かけた事もある。詳しい事情は知らないが、「不当解雇反対」と抗議する目的は何なんだろうと思う。解雇を撤回し、再雇用せよというのだろうか。組織から「いらない」と言われた以上、そんな事をしている暇があったら次の仕事を探すべきではないかと考えてしまう。

もしも自分だったらどうするだろう。
業績が悪化して、リストラ対象になってしまったら、その時は潔く辞めるだろう。クビを宣告する人だって辛いかもしれないし、「いらない」と判断されてしまった以上は仕方がないではないか。まぁせめて退職金の上乗せを頼むとか、再就職のため3ヶ月くらいの猶予をくれとか、そのくらいの交渉はすると思うが、基本は辞めるだろう。いきなり海に放り出されるのは大変な事だし、せめてライフジャケットを要求するくらいはしてもいいと思う。

正直言ってその時辛いのは世間体だと思うが、安っぽいプライドは諦めて捨てるしかない。できるのはコンビニのアルバイトなのか日雇いなのか、ひょっとしたら派遣かもしれないし、はたまた雇用の確保に苦しんでいる飲食業界を狙うかもしれないが、そのあたりで一からやり直すしかない。年齢的なハンディは長年培った創意工夫で補い、フリーター如きには負けないくらい働いてみせるくらいの腹積りはある。

まあ思うだけなら誰にでもできると言われそうではあるが、世の中には自営業の人たちがたくさんいる。組織に頼らず、自分の力量で仕事を確保して生活をしている。私の父も一人で印刷屋を経営していたし、そういう友人知人もいる。
そうした人たちに対し、一人世の中に放り出されたからと言って、嘆いたりしがみついたりしているのは実にみっともない。

せめて親父には、「恥ずかしい息子」とは思われないようにしようという心意気くらいはあるから、たぶんそうなっても、掃除でもなんでもやれると思う。
残りどのくらい働けるのかはわからないが、そういう気持ちは常に持っていたいと思うし、そういう気持ちでまた来週からの仕事を頑張ろうと思うのである・・・



【今週の読書】

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰 






2013年10月5日土曜日

ミディアム霊能者アリソン・デュボア



 少し前まで、海外ドラマ『ゴースト~天国からのささやき~』にハマっていたのだが、最近は『ミディアム霊能者アリソン・デュボア』に興味が移っている。

 『ゴースト~天国からのささやき~』の方は最終シーズンの途中まで観たのであるが、何だか話が大きくズレていくように思え、面白くなくなってきたところに、この『ミディアム』を観てしまい、乗り換えたという次第である。

 『ミディアム』も『ゴースト』と同様、霊能力者が主人公の話である
(ちなみにミディアム=Mediumとは霊媒・霊能力者という意味らしい)。主人公のアリソン・デュボアは、死者と話ができるという点では、『ゴースト』の主人公と同じだが、その他に相手の心が読めたり、夢で未来や過去のワンシーンを見たりといろいろな能力を有している。

 アリソンは弁護士を目指して検事局で働いていたが、ふとしたきっかけでその“能力”を検事に認められ、パートタイムの特別“コンサルタント”として検事局で働き始める。夢を元に犯罪者を特定したり、死刑に賛成しそうな陪審員を選ぶのを手伝ったり、犯人が怖くて嘘の目撃証言をしている証人の嘘を見破った上で助けたり、埋められている死体の場所を特定したりと、大活躍する。

 そんなアリソンは3人の娘の母親で、家庭では夫とごく普通の生活を送っている。ただ、“仕事”が忙しくなると、夫に子供たちの世話や家事を丸投げし、時に夫の不満を招いたりして、仕事と家庭の両立に悩んだりしている。ごく普通のオバさんで、体型もちょっとぽっちゃりしていて、『ゴースト』の主人公メリンダが、美人のジェニファー・ラブ・ヒューイットだったのとは対照的である。

 物語は、大概主人公アリソンの見る夢から始る。それは犯罪シーンだったり、何かから逃げたり、あるいは見知らぬ他人の会話だったりする。本人もそれが何を意味するのかわからないのであるが、やがてそれがストーリーと結びついてくる。死者と話をして死体のありかを聞き出したり、夢をヒントに危機を逃れたり、あるいは心に浮かんだ犯罪シーンを克明に語ったりする。普通の人にはできない芸当で、その能力を高く買うデヴァロス検事やスキャンロン刑事から信頼されまくっている。

 私自身、幽霊の類はまったく信じていないのであるが、どうもこの手のドラマには心惹かれてしまうものがある。それは一つには、「こんな事できたらいいな」という願望なのかもしれない。例えばアリソンの娘アリエルもその能力を一部受け継いでいて、相手の心に浮かんだ事を読みとってしまう事ができる。

 航空技術者で数学の得意なパパが、アリエルに算数を教えようとする。出された問題を次々に解くアリエル。小学生レベルをはるかに越え、パパは「天才だ」と狂喜するが、実はアリエルはパパの心に浮かんだ答えを答えただけなのである。こんな事、できたらいいだろう。

 我々は常に予測不能な未来に向かい、心の読めない相手と対峙している。妻の不機嫌の原因が黙っていてもわかれば(特に自分にその原因があれば尚更)、火がつく前に消し止められるし、自分に寄せる好意を読み取れれば、女性を口説くのも簡単だろう(ふられて切ない想いを何度もする事もなかっただろう)。明日の株価がわかればお金持ちになるのも簡単だ。誰もが解決できない事件を解決する快感は、「名探偵」モノがウケル理由でもあると思う。そんな願望を、知らず知らずのうちにドラマを観ながら己の内側に見ているのかもしれない。


 それにしても、じつは主人公のアリソン・デュボアは実在の人物なのだという。そればかりか、ご主人のジョーやアリエルら3姉妹もすべて実在の家族だというから驚いてしまう。架空のお話ならともかく、ここまで大っぴらに実在の人物をドラマ化して大丈夫なんだろうかと思ってしまう。実在のご本人は著作もあり、その身分を隠していない。

 その能力の真偽はともかく、ドラマはドラマで楽しみたいと思う。実際、願望とは言いつつも、自分の能力ならいいが奥様がそうだったら、いろいろと不都合がありそうだ。まぁ、自分に与えられた自然の能力の範囲内で、慎ましく暮らすのが一番なのだろう。まだシーズン1を終えたところだし、最終7シーズンまでしばらくある。途中で軌道修正する事なく、続いてほしいところである。当面は、楽しめそうなドラマである・・・





【今週の読書】
社長は少しバカがいい。~乱世を生き抜くリーダーの鉄則 - 鈴木喬 昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来 (日本経済新聞出版) - ジャレド・ダイアモンド, 倉骨彰