2011年12月31日土曜日

大みそか雑感

慌ただしい年末。
今週は町内会の夜回りがあった。
今年は当番で町内会の活動に参加しているが、その一環だ。
柏木持って、「火の用心!」と言いながら30分ほど近所を回る。
火事が大きな脅威であった江戸の時代ならともかく、この現代で今さらこんな事して何になるという気がする。たぶん、何にもならない。ただ、ご近所の人たちとの親睦という意味では、かなり意味のある事だと思う。
そういう意義を感じて、積極的に参加。
 
大みそかは例年通り、最後の大掃除。
我が家は分割して大掃除を行っている。
今月4回目の今日は玄関周りと洗車だ。
今年から高圧洗浄機を導入。
これがなかなかの優れモノ。
例年はデッキブラシでゴシゴシやっていたのだが、今年はこのマシンでラクラク。
次々と汚れが落ちていく様は爽快であった。

妻の話によれば、ご近所はみんな昨日一昨日で大掃除を済ませたらしい。
おそらく28日が仕事納めでお休みだったのだろう。
30日まで仕事の我が身からすれば、仕方ない。
それでも何軒かのお父さんは外へ出て最後の掃除に精を出していた。

プラプラとスーパーへ行けば、けっこうな人出。
たまには日本酒でもと思って買いに行ったのだが、棚はガラガラ。
けっこうみんな今日はお酒という気分なのだろうか。
やっぱりそこは日本人なのかもしれない。

昼に年越しそばを食べ、夕食はすき焼きというのが大みそかの我が家のメニュー。
BGMは紅白歌合戦だ。大阪の妻の実家から美味しい肉を送ってもらい、それをみんなで食べる。
今年は震災や母の入院などいろいろあったが、こうしていつものように締めくくる事が出来た事に感謝しないといけない。

Facebookで長年連絡の途絶えていた人と繋がったのも大きな収穫だった。
いい年だったと思いたい。
そして来年は、少しでいいから今年よりもいい年にしたいと思うのである・・・


2011年12月27日火曜日

クリスマスに悩む

25日の朝、世間と同様我が家の子供たちもサンタさんからのプレゼントを受け取った。
長男は、ここのところウルトラマンシリーズにハマっていると言う事もあって、「変身セット」をもらった。長女はWiiのソフトである「リズム天国」。さすがに長男のような幼さはない。

起きて真っ先にツリーに駆け寄り、プレゼントを確認する長男はわかりやすくていい。
一方の長女はというと、昔から喜びを表に現さない。
布団の中から薄目を開けてプレゼントを確認するとまた寝てしまうというのが、例年のパターン。今年も弟からプレゼントが届いていると聞くと、まだ途中だった夢の方が大事とばかりに布団をかぶってしまった。面白いものだと思うが、それはまあいい。

一つ気になるのは、「まだサンタを信じている」というところだ。
年長さんの長男は良いのだが、5年生の長女はどうなのだと思う。
娘の同級生の母親に聞くと、信じているという子でも「信じていないとプレゼントをもらえないから」信じていると言うらしいし、私の職場の同僚家のように中学・高校の子供が「暗黙の了解で」信じているようなケースもあるが、それに対して我が娘の場合は、「本気で」信じているのである。

2年前に「サンタさんてほんとにいるの?」と聞かれたが、どうも その時の説明がまだ有効らしい。可愛いものだと思えばいいのかもしれないが、もうそろそろいかがなものかと心配になってくる。人はたいがい何かを信じている場合、それに反する話を聞いた時には考え方を改めるか、拒絶するかだ。

「そう言われてみれば変だな」と思えば、考えを改める方にいくだろう。
「そんな事ない」と自分の考えに固執するのは、考える事を拒絶しているのか、論理的・合理的に考えられないかだ。5年生くらいになったら、そろそろ「そう言えば変だ」と思うだけの思考回路が出来あがってもいい頃だと思うのだ。夢を持つのも大切だが、現実に気がつく事も大切だ。

自分はどうだっただろうと思い出そうとしたが、思い出せない。
たぶん学校で友達に言われたのだと思うが、あまり覚えていない。
何度ももらった記憶がないところをみると、たぶん比較的早い段階でわかったのだと思う。
娘ももういい加減と思うが、かと言って純粋に信じている娘を傍らに呼んで、「実はな」とやるのもいかがなものかと言う気がする。悩ましいところだ。

いつまでも信じる純粋性も素敵だが、世の中はそればかりでは渡っていけない。
おれおれ詐欺の被害が今だに続いているのも、言ってみれば純粋性の一種と言えなくもないが、相手の話を聞いて冷静に判断できるところも大切だ。
いまだパパとお風呂に入るのにも抵抗のかけらさえ見せない我が娘。
幼いと言えば幼いのだが、この頃少し胸も膨らんできたし、こちらの方がいつまで一緒に入ってもいいのだろうかと戸惑う有り様。

ある日突然娘に「もうパパとお風呂に入らない」と言われてショックを受ける、という父親の図式が待てど暮らせど訪れる気配がない。まあ健康で元気が一番だと思っているから、そんな事は気にするほどでもないのだが、ふと考えてしまうクリスマスなのであった・・・


【本日の読書】
心を整える。 勝利をたぐり寄せるための56の習慣 - 長谷部誠  赤い指 (講談社文庫) - 東野 圭吾



     


     

2011年12月22日木曜日

何でだろう・・・

最近回りで夫婦仲が悪いという話を頻繁に耳にする。
同僚にも「家庭内別居状態」と自嘲気味に語る人もいるし、口を開けば女房の悪口という人もいる。男ばかりでなく、友人たちとご飯を食べに行ったら、旦那の悪口大会だったと語ってくれた女性もいる。冗談半分、テレ隠しなどというレベルではなく、みんなマジなのだという。そう語ってくれた独身の彼女は目を白黒させていた。

なんでなんだろうか。
現代社会はほとんどが恋愛結婚なハズで、みんな愛し合って結婚したはずだ。
それが10年、20年と経つと相手が疎ましくなるのだろうか。
一時期「円熟離婚」だとか「定年離婚」だとか言われたが、つい先日も取引先の方の両親(もういい年なのである)が離婚騒動だと聞いたところだ。

そういう我が家も例外ではない。
近年妻が私に対して、めっきり冷たくなっている。
最初は子育ての疲れかとか思ってはみたものの、もう子育てで疲れるというほど子供も小さくない。いかに鈍感な私でも、妻が私に対してかなりの不満・ストレスを抱いているのがわかって来た。

そういう気持ちが言葉の端々に出る。
モノには言い方というものがあり、同じ言うにしても言い方一つで感謝もされれば、憎悪を抱かせる事も可能だ。どうしてそんなモノの言い方をするのだ、と私もついつい腹を立ててしまう。それがまた妻の怒りにも繋がるので、怒りの連鎖と応酬はどこかで止めなければとめどなく続く。それゆえ、大概私が黙って怒りの連鎖を呑み込んで断ち切る事になる。

思えば結婚当初は、互いに相手に対して何かをしてあげようとして、それを自分の喜びとしていたような気がする。それがいつしかやってもらうのが当然となり、次第にやらない事が不満へと繋がるようになる。「仕方ないわねぇ」と笑って許していたものが、「いい加減にしてよ」となってくる。
たぶん、私の気がつかないところで、そんな変化が起こっているのだろう。

そんな関係は子供たちにも微妙に伝わる。
娘なんかは、「パパはママの事好きみたいだけど、ママはねぇ・・・」などと平気で言う。
たぶんこのまま症状が進むと、「家庭内別居」中の同僚のようになる気がする。

今年の年初に一つの目標を立てた。
「妻に対しては決して腹を立てない」と。
あと少しで目標達成というところだったが、先日とうとう喧嘩してしまった。
理由は妻の「モノの言い方」だ。

そのあと冷静になって反省し、和解の申し出と話し合いを希望したが、あっさり却下されてしまった。以来、表面上は一見穏やかな生活が続いているが、妻の内面は知る由もない。
夫婦も元はと言えば他人だし、考え方も違うし、妻ばかりが悪いわけではない。
ただ、自分の悪いところがわからないだけに厄介だ。

腹を割った話し合いも拒絶されてしまうと、どうしようもない。
難しいなぁとつくづく思う。

最近仕事ではあまりプレッシャーを感じなくなってきた。
その分、家庭内にきたと言えなくもない。
人にはいろいろな試練が訪れる。
私の場合は、これがその一つだ。

まあ修業だと思って、前向きに関係改善に努めたいと思うのである・・・


【本日の読書】


「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? - 安西洋之, 中林鉄太郎 白銀ジャック (実業之日本社文庫) - 東野 圭吾











2011年12月18日日曜日

長女の誕生日2011

12月は長女の誕生月。
毎年誕生日に一番近い日曜日に誕生日会をやっている。
今年はそれが今日であった。

ケーキを食べ、プレゼントをあげ、夕食は長女が好きなものをリクエストというのが例年のパターン。今年は去年に続いて「焼肉」であった。長女は曽祖母から伝わる食いしん坊の女系の血筋で、物心ついた頃からずっと食べる事に対する関心は強い。

さてその焼肉であるが、去年に続いて行ったのは西武池袋線富士見台にある「牛蔵」。
美味しい肉がリーズナブルに食べられるという事で、知る人ぞ知る店である。
土日は当日昼に行って予約しないと入れない。
12時の受け付け開始にあわせて10時半に行くと、すでに30人くらい待っている。
去年より激しい。

焼肉屋はどこにでもある。
「美味しい」と形容詞をつけると、数は減るがそれでもたくさんある。
そこにさらに「安くて」とつけると、我が家の界隈ではここぐらいで、その結果の大人気なのである。これだけのにぎわいだからたぶん儲かっているのだろうし、なぜ他所ができないのか、ここだけがどうしてこういう経営戦略が取れるのか、とっても興味深い。

並んで約2時間後に予約を終える。
早く行ったつもりだったが、希望の時間からは外れて夜の8時台の時間になってしまった。
明日も小学校と幼稚園がある子供にはちと辛い。

その足で池袋に向かい、予約していた誕生日のケーキを受け取る。
「ボン+ボンヌアニバーサリー」というところ。
月に1度はこの池袋西武の地下で、会社帰りにスイーツをお土産に買って帰るのだが、ちょっとここは見落としていた。「今年は見てくれ重視」という妻の発案だ。

実家の母親を招いてお誕生日会。
今年一年実家との関係改善を模索し続けて来たが、まだまだうまくいっていない。
両親の思いと妻の思い。
双方それぞれの考え方は理解できるのだが、なかなかうまく橋渡しができない。
双方に欠けているのは「寛容」。
積み上げては崩れるの繰り返し。
気分はすっかりシーシュポスである。

そんな事を露知らぬ長女。
双方の祖父母、叔母、そして我々親からプレゼントをもらいご満悦。
クリスマスもあって、この時期プレゼントが積み上がる。
1年中で一番幸せな月だと思う。

長女が生まれて11年。
長女の誕生日は我々夫婦が親になった記念日でもある。
あの頃と比べると、妻とのコミュニケーションも薄れてきている。
まあそれは追々解消していくとして、これからも子供たちは日々成長していく。
一緒にお風呂に入れるのも、あとどのくらいだろう。

これから大人になっていき、いずれは親元を離れていくのだろうが、大人になって過去を振り返った時に、そこに家族との楽しい思い出がたくさんあれば何よりだ。誕生日のようなイベントは尚更だし、今日という一日がその1ページとなればと思う。年に一度の誕生日。
楽しい一日を過ごしてもらいたいと思うのである・・・


【本日の読書】

真相 (双葉文庫) - 横山秀夫





2011年12月14日水曜日

フェイスブック

フェイス・ブックを本格的に使い始めたのは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観てからである。それまでは「ただでさえ少ない時間をつぶされたくない」と、ミクシィなどには敢えて手を出さずにいたのであるが、やっぱり映画を観てしまうと興味が先に立つ。

やり始めてみると、意外な発見が結構ある。開くとニュースフィールドに友だちが何をしているかが出てくる。今までなら友だちといっても、いくら親しくても毎日彼が何をしているかなど知りようもない。しかし、フェイスブックでは、少なくとも投稿された行動だけは何をしていたかわかる。なんとなく「ご無沙汰感」が薄れるというものだ。

本名で登録するという部分に最初は抵抗があったが、慣れてみるとどうという事はない。それに10年以上も会っていなかった人から友だちリクエストが来た時には、驚くとともに嬉しく思った。たぶんフェイスブックがなければ、ほとんど連絡など取れずに終わっていた可能性もあったりしたからなおさらである。

久しぶりに消息を知って、基本データを見て、実は転職していたりという事を知ったり、いつのまにか結婚していたりとか、最近の趣味・趣向なんかを窺い知る事ができるのも大きなメリットだ。いつのまにか随分おっさんになっていたりする人もいて、微笑ましく思ったりもする。会ってはいなくとも、その存在を身近に感じられるところがいい。

コメントを入れたりすると簡単なやり取りもできたりするし、ただでさえ縁遠くなりがちな友人たちと繋がりを持てるのはありがたい。今年の漢字には「絆」が選ばれたようだが、まさにフェイスブックこそそれに相応しい感じがする。

懐かしい友人の「友達」を見ると100人を越えていたりする人もいる。たぶん積極的に集めたのだろうが、私の場合はまだそこまで積極的になっていない。リクエストが来た相手か、たまたま見つけた知人が中心だ。まあしゃかりきになって集めても、もともと友達の少ない私としては100人も集まらないと思うし(ただの友達ならまだしも、「フェイスブックに登録している」となるとまず無理だろう)、今のところは自然増に任せるつもりである。

「フェイス」ブックというくらいだから、顔写真が不可欠だと思うのだが、さて登録しようとして一つの事実に気がついた。登録できるような写真がないのだ(単独の写真という意味でだ)。デジカメの画像を見ていくと、必ず家族と一緒だ。よく考えてみれば当然なのだが、なんだかちょっと寂しい気もする。

しかし、誰かが名前で探り当てて来たとしても、顔写真があった方がいいだろうから、何かアップしておこうと思っている。気のせいか、たまに知り合いを検索してみても、私の同期世代は登録者が少ない。登録さえしていれば、今はまったくどこで何をしているかわからない人を探し出せる可能性があるわけだから、ちょっと残念に思う。

そう言えば高校の同期会をやる時に、昔のクラスメートの何人かは消息不明で探せなかった。
もしも登録さえしていれば、彼らを探し出せるわけである(さっそくやってみようか)。そう考えてみればこの「つながり」は凄い。

私の子供たちがもう少し大きくなったら、友達はみんな登録ユーザーという事になっているかもしれない。そうすると、一生涯で知り合う人すべてとずっと繋がっていけるわけで、そんな事を想像してみると、その未来もまた凄い。

いよいよ年賀状のシーズン。これも伝統的な「つながり」であるが、年に一度というのが玉に瑕。毎年ご無沙汰をお詫びしている人も多いが、フェイスブックでは常時情報を届けられるというメリットがある。自然増もいいけれど、伝統的手法に代わる手段として、いずれは活用できるかもしれない。いろいろな可能性もあるし、当面はせっせとアクセスしてみようと思っているのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫




2011年12月8日木曜日

夢から醒めた夢

学芸会で「夢から醒めた夢」の演劇をやった長女と、その晩お風呂で話をした。
その中で、ストーリーそのものについて感想を聞いた。
ストーリー自体はとても面白かったと言う。
だからやっていても楽しかったのだと。

ストーリーは実は赤川次郎の原作らしい。
小学生の女の子ピコが、ある時幽霊の女の子マコと出会う。
交通事故で突然死んでしまったマコは、嘆き悲しむ母親にきちんとお別れを言いたいと言い、一日だけピコと代わってくれと頼む。快く応じたピコは、霊界空港で一日を過ごす事になる。

その空港は、白いパスポートを持った人(天国=光の国へ行く人)と黒いパスポートを持った人(地獄へ行く人)が集まって来ている。ピコの話を聞き、「マコが戻って来なかったらどうするのだ」とみんな心配する。いろいろやり取りがあり、最後は子供に戻るなとすがりつく母親と、約束は守らないとと思いつつ迷うマコと、それを見守るピコの場面となる。
(劇団四季バーションはちょっとウルっとする場面である)

最後の場面について、長女に尋ねてみた。
「お前がピコだったらマコと代わってあげる?」
長女の答えは「代わってあげる」だった。
「でも、戻ってこなかったら、お前は元に戻れなくなってパパやママに会えなくなるんだよ」と意地悪く問う。

続けて、「もしもマコだったら、約束通り戻る?」と聞く。
「戻る」と答える長女。
「でもそうしたらもうパパやママに会えなくなるんだよ」とまた聞く。
長女は答えを探しあぐね、黙ってしまった。
ちょっと意地悪く聞き過ぎてしまった。

だが私だったらどうするか、と逆に考えてみても答えは難しい。
ピコの立場だったとしたら、初対面やあまり親しくない人であれば断るだろう。
仕事柄か、リスクについては真っ先に考える。
この場合は相手が戻って来なくて、自分が元の世界に戻れなくなるリスクだ。
そのリスクと天秤にかけたら、ほとんど比較にならない。
ピコのように初対面のマコに譲るなんて、大人過ぎてしまう私には不可能な決断だ。

問題は親しい友人に頼まれた時だろう。お金だったら簡単だ。
貸して忘れられる相手に、返してもらわなくても困らない限度で貸して、あとは忘れれば良い。だが、生死がかかるとそういうわけにはいかない。
養うべき家族がいる身とすれば尚更である。

さらには、もしも相手が戻って来なかったとしても、その気持ちは痛いほどわかるし、それゆえに裏切られても相手を恨めない。自分が逆の立場だったら、ひょっとしたら相手を裏切るかもしれない。だからこそ、おいそれとは代われないのだ。

長女もそろそろいろいろな事がわかるようになってきている。
世の中には、学校の勉強のように、答えがすぐわからない問題もある。
誰かが正解を知っているとは限らない問題もある。
そういう問題は、自分自身で納得のいく答えを出すしかのである。
そんな問題に、少しずつ出会っていくのもいいかもしれない。

ストーリーでは、最後にマコが約束通り戻って来て、無事白いパスポートを手にして光の国へと旅立って行く。友情と友達を信じる事の大切さとを描いてハッピーエンドである。
今はまだ「最後はハッピーエンド」で良いだろう。
いずれ出会う答えのない問題に、逃げずに立ち向かえるように、少しずつ慣らしていってあげられたらと、親としては思うのである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫






2011年12月5日月曜日

学芸会

世界中に定められた どんな記念日なんかより
 あなたが生きている今日は どんなに素晴らしいだろう
  世界中に建てられてる どんな記念碑なんかより
   あなたが生きている今日は どんなに意味があるだろう
TRAIN-TRAIN (THE BLUE HEARTS)

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土日は二日間とも娘の学校の学芸会であった。
3年ごとのサイクルで、音楽会・展覧会・学芸会と繰り返されている。
今年はその学芸会の年であった。
娘たち5年生の出しモノは「夢から醒めた夢」。
以前劇団四季のミュージカルを観た事があるが、どんな「小学生バージョン」になるのか楽しみにしていた。

学芸会と言うと、ついつい我が身の事を思い出す。
確か小学校3年の時だったと思うが、「僕はラッパ手」という戦争中の子供たち物語の劇で、そこでどういう経緯だったか忘れてしまったが、なんと私は主役を演じたのである。
今の自分からは想像もつかないが、その頃はまだそんな事をやれていたのだ。
頭も戦時中の物語らしく坊主頭にしての熱演であった。

当時も土日二日間の「興業」であったが、土曜日は生徒向け、日曜日は父兄向けであり、私はその土曜チームであった。何となく日曜チームが「格上」という雰囲気があった。
(娘たちの場合は両日とも生徒と父兄が観に来るから関係ないようだった)
言ってみれば土曜チームは二軍で、一軍の同じ役の友人Tにはなんとなく引け目を感じたものである(その後Tとは中学・高校と一緒に進み、最後は同じクラスであったし、結婚式にも呼ばれた仲である)。

捲土重来とばかりに、6年の学芸会で主役に立候補した。
しかしながら、オーディションであえなく落選。
私の声が(体育館では)通らないと言うのが理由だった。
自分の事は自分ではわからぬもの。
その時、自分の向き不向きというものの一つがわかり、私の将来から「俳優」という選択肢が消えたのである。

娘の役は途中で登場するデビルの一人であり、名前もないいわゆる「チョイ役」。
セリフも出番も少々であった。まあ私の娘だから、その点は仕方ない。
何でも本人は主役からはじまって、片っ端から立候補したらしいが、残念ながら落ち続けたらしい。そんな話を聞いていたせいもあり、朝はしっかりと励まして送り出した。

本番ではビデオ片手に観劇。
娘はしっかり声を出していた。
感心した事は、自分のセリフがない時でも、舞台の端でストーリーに合わせてしっかり演技していた事だ。うなずいたり、手を叩いたり、何事か仲間と話したり・・・
当然と言えば当然であるが、自分にスポットライトが当たっていないところでもきちんと演技していた事は、あとでお風呂で褒めておいた。

自分自身を振り返ってみても、常にスポットライトが当たっているという人生ではない。
むしろ当たっていない事の方が、大人になってからは当たり前だ。
それでもきちんとやる事はやらないといけないし、社会の中での自分の役割というものはスポットライト如何に関わらず、きっちり果たさないといけない。
娘がそんな端役の意義を理解できたとしたならば、それはそれで良かったのかもしれない。

まあこれで娘の将来から「女優」という選択肢はなくなったかもしれないが、それがどうだと言うのだ。最後の学芸会となったわけであるが、しっかりと娘の演技も観たし、ビデオにも納めたしで、満足して帰ってきた次第である・・・

【本日の読書】
錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江  フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫





2011年12月2日金曜日

A day in the life

  たったひとりしかない自分を
   たった一度しかない一生を
    ほんとうに生かさなかったら
     人間生まれてきたかいがないじゃないか 
                    山本有三著「路傍の石」より
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 いつの間にか月別カレンダーも最後になった。
朝いつものように駅に向かう途中、そろそろコートが必要だなと感じる。
週末にはクローゼットの奥から引っ張り出さないといけない。

 行きの通勤電車の中では、今『錯覚の科学』と言う本を読んでいる。
人間の注意力や記憶の限界による様々な錯覚を取り上げている本であるが、これがなかなか面白い。あっという間に東京駅についてしまうが、そのまま乗り過ごして続きを読みたい気分である。

 師走と言っても、今の職場はそんなに忙しくない。ありがたい事に仕事はかなりコントロールできるので、うまく繁閑を分散できるのだ。今日はある中小企業の社長と面談。商売も厳しく、財務内容もよくないのであるが、年齢も60を越えてそろそろ後継者の事を考え始めている。いろいろと相談に乗ったのであるが、今までは考えもしなかった事を考えるようになったと言う。

 考えてみれば、自分も今は家族の生活に責任が持てている。自分が働けなくなった時の事など、あてにはならぬとは言え、何となく年金をもらってなんて考えているが、中小企業の社長ともなると代わりに経営を任せないといけないわけで、不安も大きいのだろう。最近そういう相談を受ける機会が多くなっているが、私自身も年齢を経て相手も話しやすくなっているのかもしれないと感じる。

 コントロール可能とは言え、定時に帰れるほど暇ではないのが実情。それでもうまく日々の仕事の中に面白味を見いだせているから、格別の不満はない。
(まあ細かい些細なモノはやっぱり人間だから感じざるを得ないが・・・)
かつては猛烈なストレスを抱えていた時もあったが、今は比較的職場の人間関係に恵まれているところも大きいだろう。ありがたい事だ。

 今のストレスと言えばむしろ自分の時間がとり難い点だろう。やりたい事はいろいろとあるが、それをやる時間が十分ではない。楽しくない事はやめたりして、いわゆる断捨離を心掛けているが、それも十分とは言えない。自分でやりたい事をやる時間をどう捻出していくか、が今のテーマだ。

 帰りの電車の中では、『フェイスブック 若き天才の野望』を読んでいる。こちらは、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観て興味を持ったのだが、映画では描き切れなかった部分が細かく描かれており、より一層面白く感じる。もうちょっと読みたいと思ったところで駅に着いてしまう。ドアtoドアで約1時間の通勤時間は苦にならないが、もうちょっと読みたいという気持ちが、強いて言えばストレスなのかもしれない。

 帰宅すると子供たちは寝るところ。二言三言、今日の様子を聞く。平日は一人の夕食も仕方ないところだ。食後のコーヒーを楽しむ至福の一時。週末の深夜には、溜めこんだ映画を観るという楽しみもある。今夜は何を観ようか・・・

 明日は子供の学芸会に年末の買い出しのドライバー。12月の週末は大掃除や買い出しなどの「公用」ですでに予定は一杯。されど細かい予定はまだ知らされていない。「マネージャー」に聞いてみないとわからない。自分のスケジュールを「マネージャー」が決めるという部分では、タレント気分を味わえると自嘲している。

 まぁまだ2011年も一ヶ月も残っているし、日々楽しみを見出して今年を締めくくりたいものである・・・


【本日の読書】

錯覚の科学 (文春文庫 S 14-1) - クリストファー・チャブリス, ダニエル・シモンズ, 成毛 眞, 木村 博江   フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) - デビッド・カークパトリック, 小林弘人 解説, 滑川海彦, 高橋信夫