2011年10月27日木曜日

押すべきか押さざるべきか

先日、キャメロン・ディアス主演の「運命のボタン」という映画を観た。
ある日突然、家の前に置かれた箱。
翌日訊ねてきたなぞの男が語るには、箱の中の装置のボタンを押せば、どこかで知らない誰かが死ぬが、その代わり無税の現金100万ドルをあげようというもの。
キャメロン奥様は夫とどうするか相談する・・・
さて、こういう時、自分ならどうするだろうといつも考える。

知らない誰かという事だから、家族でも親兄弟でも友人知人でもない。
だったら・・・と考えるか。
映画の時代設定は1976年だから、まだ1ドル300円くらいの時代。
100万ドルといっても今やだいぶ輝きを薄めたが、まだまだ夢のような大金の時代だ。
さて、どうする。

私だったら、迷わず「押さない」を選択する。
別にどこの誰かは知らなくとも人命を尊重して、というわけではない。
100万ドルを手にしてもそのあとどうなるかわからない。
不透明な「相手の土俵」で踊らされたくないからだ。

考えてみても、100万ドルを手にしたあと、その男がその装置を持ってどこか他の知らない誰かのところへ行って、同じ提案をしたらどうなる。
今度は死ぬのは自分の番かもしれない。
「どうせ知らない他人なら死んでも構わないと思ったヤツだから」と遠慮なくターゲットにされてはかなわない。

それにもしかしたら、「ドッキリカメラ」かなんかで、「この人はお金のために知らない人の命を犠牲にしました」と日本中に晒されるかもしれない。
「相手の土俵で勝負する」怖さはこういうところにある。
ある日突然、尻尾を生やした悪魔が目の前に表れて、「お前の望みを何でも3つ叶えてやろう」と言われても、「じゃあ何にしよう」とは絶対に考えない。
望みを叶えてもらったあとに、どんな「仕打ち」が待っているかわかったものではない。

「おいしい話には絶対裏がある」と信じてやまない私としては、素直においしい話に飛びつく事はない。もしも仮にそれが本当に美味しい話だったら、バカみたいに損をする事になるが、仕方ないだろう。チャンスを逃した悔しさと、わかっていてバカをみた悔しさとどちらを選ぶかの話だ。

映画はそんな私の考えた通りに展開する。
「ほらみろ」と一人つぶやく私。
映画に出てくる家族は3家族がボタンを押してしまう。
それもいずれも押したのは奥様だ。
なんとなく頷けるじゃないか。

我が家も自分は押さないが、奥様が押す心配は大いにある。
目の前では押さなくとも、影で押してしまうかもしれない。
果たして押さないように説得できるだろうか?

誘惑を振り切るよりも、そっちの方が難しいに違いないと真剣に思うのである・・・

【本日の読書】
                    
 

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