2009年5月28日木曜日

I love吉牛

仕事で外出する。
昼食時に重なると、当然外でランチとなる。
そんな時、月に1~2度は必ず吉野家へ向う。
そんな私は吉野家の牛丼好きである。
たぶん、中毒と言っても過言ではない。

牛丼なら松屋でもランプ亭でもなか卯でもあるのである。だが、味が違う。ビールのテイスティングはできなくても牛丼ならできる(吉野家とそれ以外という意味で、である)。アメリカ産牛肉とたまねぎとご飯の絶妙のコンビネーションが、他のチェーンのそれとは一味もふた味も違うのである。

ただいま研究中の「究極のメニュー」に加えるべきかどうか、迷うところではあるが、他のメニューとの優劣からするとちょっと入れ難い。ただし、丼モノとしてはカツ丼と天丼とでベスト3を形成する。究極の丼モノではある。

独身時代は週末の土日のどちらかのランチは必ず吉牛であった。
結婚するとなかなかそうもいかないので、今はもっぱら平日の外出時にふらっと寄ったりするのが唯一の機会だ。月1~2回程度に減ったとはいえ、1ヶ月以上も食べないと禁断症状が出てくる。そろそろ、と思うとわざわざ昼に重なるようにアポを入れるときもある。

そんな有り様だからBSE騒動の時は本当に辛かった。
耐え切れずに松屋やなか卯で牛丼を食べたが、味の違いに逆にフラストレーションが溜まってしまった。しかしあの時、あくまでも米国産の牛肉にこだわり、妥協する事なくそれを貫き通し、最大の経営危機を、単品経営を捨てるという英断で乗り切った姿勢はさすがである。あの時も、オーストラリア産牛肉で「これも吉野家の味」といって凌ぐ方法もあったはず。それをせずに、主力商品を引っ込めて他のメニューを開発した決断力は素晴らしい。

企業だから当然、儲けて存続しなければならない。
唯一の商品がなくなるという危機に、変えるべきは味かメニューかの選択をしたわけである。
そうしたこだわりは見習いたいところである。
自らのアイデンティティーとして「変えられないもの」、「変えたくないもの」、辛くても歯を食いしばって「守るべきものは守る」という哲学は個人にでも十分当てはまる。
大事なものを諦めてしまった事をいまだに後悔している身としては、一本筋が通っている事の大切さを感じずにはいられない。

その心意気に応えるべく、牛丼がない時期に豚丼も随分食べた。
BSE騒動が収束に向いつつある時、一日限定の牛丼復活があった。
その日は休みだったから、当然食べに行った。
家で宣言をしたら、妻には鼻でふふんとあしらわれたが、娘が「一緒に行く」と言ってくれた。
まだ幼い娘が一人付き合ってくれ、親子で吉牛の復活を祝った。
それは懐かしい味であり、待ち焦がれた味であった。

「食べたい時にいつでも食べられる」というのは、牛丼に限らず本当に幸せな事である。
この飽食の時代にそれを実感できた体験は貴重だ。
たかが牛丼、されど牛丼。
いつでもどこの店舗でも味わえる素晴らしさ。
これからも吉牛にはお世話になりたいと思うのである・・・
   
   

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