先日、ビートたけし監督・主演の『首』という映画を観た(監督のクレジットは北野武であった)。たけし自身は羽柴秀吉を演じ、織田信長や明智光秀、荒木村重などの戦国武将が入り乱れる群像劇で、アレンジの効いた時代劇であった。タイトルにある通り、その中でしばしば出てきたのが、敵の武将を倒した際、その証として首を切り落とすこと。褒賞に際し、それを提示して手柄として認めてもらっていたようである。現代の感覚からすると極めて残虐である。何年か前に中東でISがジャーナリストなどを斬首して殺害し、その動画を公開するという事件があり、世界に衝撃を与えたが、かつては我が国でもそれが当たり前に行われていたのである。
当時の人の感覚ではなんともなかったのだろう。あるいは、現代でも動物の屠殺が行われているが、慣れた人ならなんともなくても普通の人は目を背けてしまったりするが、同じようなものなのかもしれない。考えてみれば、武士の世ではカメラというものはなく、敵味方入り乱れる戦場などで敵を倒したという証は首以外になかったから、いつからか首を斬り落として手柄の証とするようになったのだろう。昔の刀の切れ味がどのくらいだったかはわからないが、スパッと斬り落とすわけにはいかなかっただろうと推測する。
スパッと斬り落とすのは、切腹における介錯のようなケース(あるいは処刑における斬首)以外には難しかったのではないかと思う。映画では有名な備中高松城攻めにおいて、高松城主清水宗治が和睦の条件として切腹する様子が描かれる。船の上で舞を舞い切腹する様は有名であるが、長々とした儀式に秀吉がまだかとイライラする様子が描かれる。1人は人生の終わりに際し、ゆっくりと名残を惜しむかのようで、さっさと中国大返しに転じたい秀吉との対比がなされていたが、そんな中で最後に介錯人が首を斬り落としていた。
切腹における介錯では、「首の皮一枚」を残すようにしたそうであるが、経験則の中から築き上げられたやり方だったのであろう。人間は腹を切ってもすぐには死なない。死ぬまでに苦しまなければならないから、苦しまないように首を斬って楽にする。残酷なのかそうではないのか、現代人の感覚からは判断が難しい。映画『最後の忠臣蔵』では、主人公が最後に腹を切るが、介錯人はおらず、自ら喉を突いていた。自己介錯とも言えるが、当時は武士の作法だったのであろうが、やれと言われてもとてもできるものではない。
そういう時代だったと言えばそれまでであるが、『首』では、手柄の首を主君に届けて褒賞をもらう。斬り落とすだけではなく、それを持ち歩くこともできるものではない。ラストで山中に逃れた明智光秀が首を落とされ、その首が秀吉の前に持ち込まれる。じっくりと首実験をするが、人相が変わっていてそれとはわからない。伯父が亡くなった時、その死に顔を見たが別人のようだった事が脳裏をよぎる。こういうこともあったのだろうと思う。昔は写真などないからこういうこともよくあったのだろうと思う。
それにしても、戦では命を賭けて斬り合い、負ければ首を落とされる。勝ったとしても相手の首を斬り落として持ち帰り、手柄として誇示する。大きな責任を取らなければならない時は腹を切り、介錯人になれば首の皮一枚を残すように首を斬らなければならない。首を斬れば出血も激しいだろうし、返り血まみれにもなっただろう。武士の世は死と隣り合わせであり、その血にまみれた感覚はなんとなく想像はしてみるものの、現代人の理解を超えるものがある。それはそれでいいとは思う。
先日、秋の味覚さんまを食べたが、スーパーではさばいてもらえず、自分ではらわたをさばいた。見よう見まねであるが、なんとかできるものなのだと思ったが、それでも気持ちいいものではなかった。魚でさえそうなのであるから、人間では言わずもがなである。現代人で良かったとつくづく思う。理解などできない方が幸せなのだと改めて思うのである・・・




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