2025年6月18日水曜日

霊魂は存在するのか

 今、通勤電車の中で読んでいる『語りえぬものを語る』という本の中で、「霊魂は存在するのか」という話があった。別に真面目に霊魂の存在を議論したものではなかったが、自分の中で引っ掛かったので改めて考えてみた。霊魂とは、ちょっと調べてみると、「肉体とは別に精神的実体として存在すると考えられるもの。肉体から離れたり、死後も存続することが可能と考えられ、体とは別にそれだけで一つの実体をもつとされる、非物質的な存在。人間が生きている間はその体内にあって、生命や精神の原動力となっている存在、個人の肉体や精神をつかさどる人格的・非物質的な存在、感覚による認識を超えた永遠の存在と考えられている」とある。これをそっくりそのまま信じるのは難しいだろう。

 昔からいわゆる「幽霊」と言われるものも、この霊魂とイコールなのだと思う。死してなお存在する人(の名残?)であるが、人間は生物であり、心臓が止まればその生存は終わる。思考も生命活動の一環であり、脳への血流が止まり生命活動が終われば思考も消滅する。すべてがそこで終わって無に帰るわけであり、「死後も存続する」ことはないと考えるのが自然であろう。もしも死後も存在するのであれば、認知症になった人はどうなるのかと思う。当然、認知症のままの霊魂が残る事になる。幽霊=霊魂の存在を信じる人がいるとしたら、この点はどう思うのだろうかを聞いてみたいと興味深く思う。

 とは言え、同じ生物として活動していてもその思考内容は人によってまったく違う。人間であれば心臓の働きも脳の働きもみな同じであろうが、脳の働きの結果としての思考については千差万別である。この点は実に不思議だと思う(当たり前だと思う人の方が多いかもしれないが)。「同じ生命活動でありながら思考が人によって違う」という事ゆえに、生物としての肉体以外に何かがあるとすれば、それが霊魂と名付けられるものなのかもしれないとは思う。ただし、それは肉体を離れて存在するものではなく、肉体とともにあって「生命や精神の原動力となっている存在」というものである。

 同じDNAを持血、同じ親の下で育っても兄弟で性格が違うというのも当たり前にある。同じ学校に通い、同じ担任に教わってもそれぞれ当たり前に違う。自分中心の考え方をする者もいれば、周りの人に配慮できる人もいる。同じ映画を観ても、同じ本を読んでもそこから受ける影響はみな違う。人から面白いと言われて勧められた映画を観てさほど面白いとは思わなかったという経験はザラだし、本もまた然り。逆に自分がめちゃくちゃ感激した映画をせっかく勧めたのに観もしなかったという事も同様。なぜ同じように感じないのだろうか。同じものに触れてもそこから何かを感じる感性というようなものもまた人によって違う。

 そうした感性は、思考の違いも同様、おそらく細胞レベルで研究してもわからないだろう。「病は気から」という言葉がある通り、人間の精神状態は肉体にも影響を及ぼす。そうなると、やはり「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあると言ってもおかしくはない。ただ、それを「霊魂」と称するのには抵抗感がある。それは「霊」という言葉に引っ張られているのかもしれない。「霊」はどうしても「幽霊」に通じてしまい、「ありもしないもの」というイメージがしてしまう。基本的に「霊魂」が存在するとしてもそれは生きているものであろう。死んで生命活動が終われば霊魂も消滅する。

 一方で生きている者にはやはり目に見えない「生命や精神の原動力となっている存在」というものがあるように思う。原子レベルのものは目に見る事はできないが存在する。それと同様、今は十分に解明できていないだけで、そういうものがあるのかもしれない。それはそれとして、その人を形作る思考の元になっている何かがあって、それは血管を流れる血液なのかニューロンを伝わる電気信号なのか、何らかの活動によって生み出されているものであろう。それを「霊魂」と名付けるのであれば霊魂は存在する。ただ、個人的には「霊魂」というより「魂」と言った方がしっくりくる。

 こういう「魂」は大事だと思う。「魂を込めて」作ったものには何か普通のものとは異なる霊力のようなものを感じたりする。野球に例えるなら、魂を込めて作ったバットと普通に作ったバットのどちらかを選べと言われたら、たいがい魂を込めて作ったバットを選ぶだろう。たとえ材質はまったく同じだったとしても、そこに目に見えない力を感じて期待して選ぶだろう。その場合、その人は作り手の「魂」の存在を信じているという事になる。目に見えているものがすべてではない。特に人間の精神のようなものは一見、存在を軽視されそうであるが、「魂」は確実に存在すると信じられる。

 ラグビーでは「魂のこもったタックル」と言えば、気迫あるプレーで仲間の気持ちを鼓舞するものである。そういうタックルをする者は何より仲間の信頼を得る。魂が震える芸術作品というものもある(同じ作品を見ても魂が震えない者も当然いる)。現に信じる信じないは別として、我々は魂を前提として考えているのは事実である。「霊魂」という言葉に引きずられることなく、「魂」と考えればその存在は十分に考えられる。魂のこもったタックルはしたいし、ここぞという時には魂のこもった行動を取りたいと思う。

 「霊魂」は存在しないが「魂」は存在する。そんな風に思うのである・・・


Stefan KellerによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店  新古事記 [ 村田 喜代子 ] - 楽天ブックス

2025年6月15日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その5)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子畏於匡。曰、文王旣沒、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。
【読み下し】
子(し)、匡(きょう)に畏(い)す。曰(いわ)く、文王(ぶんおう)既(すで)に没(ぼっ)し、文(ぶん)茲(ここ)に在(あ)らずや。天(てん)の将(まさ)に斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさんとするや、後(こう)死(し)の者(もの)、斯(こ)の文(ぶん)に与(あずか)るを得(え)ざるなり。天(てん)の未(いま)だ斯(こ)の文(ぶん)を喪(ほろ)ぼさざるや、匡(きょう)人(ひと)其(そ)れ予(われ)を如何(いかん)せん。
【訳】
先師が匡で遭難された時いわれた。「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、なんで、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何ができるというのだ」
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 この文章だけだと(翻訳の限界かもしれないが)状況がよくわからない。孔子が匡という国で何らかの災難に巻き込まれたのであろうか。それも人災のように思える。風前の灯のような己の状況に対し、自分には天意があるのでむざむざとここで命を絶たれることはないとでも語ったのであろうか。それは自分を鼓舞するための言葉のように思う。自分はいったい何をすべきなのか、それは天命なのか。もしも天命であれば中途半端にやめるわけにも行かない。己の本分を全うするという覚悟も必要になってくる。

 会社の役職も上がれば上がるほど似たような覚悟を求められるものではないかと思う。中小企業に転職して以来、どうも中小企業では「役職」に対する意識が弱いと感じている。特に「取締役」というものがどういうものかわかっていない。我が社でも古株の取締役がいたが、本来の役割を理解しないまま、社長と意見対立が続き、その意見は取締役としては如何なものかという事だったので、私ももう1人の取締役からも支持を得る事なく孤立し、今回自ら辞表を出した。本人的にも限界を感じたのだろうと思う。

 その取締役は新卒で我が社に入り、エンジニアとしてしかるべき優秀な成績を収め、最終的には取締役に抜擢されるに至ったのである。一般的に取締役に就任するにあたっては、社員として一旦辞表を出して退社する。その時点で退職金ももらう。そして株主総会で信任を得て取締役に就任するのである。役割は「会社の経営」である。株主に選ばれた取締役は、直後の取締役会で代表取締役(すなわち社長)を選任する。自分が選ばれれば社長になるわけで、当然そういう「経営目線」で考えないといけない。

 ところが中小企業では人材不足もあって、ある日突然取締役に任命される。本人も役員報酬はそれまでの給与よりも高いし、何より肩書きとしては申し分ないので気軽に引き受けてしまう。任命する方も事務的な手続きに終始し、「取締役とは」という話をするわけでもない。当たり前だが、取締役に任命されたからといって、その瞬間から取締役の仕事ができるわけではない。その立場を十分に自覚し、「これまでとは違う」という意識で「何をなすべきか」を考えないといけない。大企業ではそのあたりは出世の階段を競争を勝ち抜いて上がっていくうちに自然と身につくのだろうが、人材不足の中小企業ではどうしても「明日から取締役、しっかりやれ、以上」で終わってしまう。

 自分は天意を受けているという孔子の信念は、何となく思い込みが激しいように思うが、取締役を拝命したのであれば、それがたとえ社員数人の小さな会社であり、会社法で取締役が3人以上いないといけないからやむなく任命されたに過ぎないとしても、同じように自覚を持って任に当たりたいものである。何となく名刺に「取締役」とあると見栄えがいいと思ってそれに安住してはいけない。以前、リゲインのCMで「24時間戦えますか?」というのがあって、それは今の時代に受け入れられないものではあるが、取締役は例外である。

 取締役は「経営者」に分類され、従って雇用保険の対象にもならず、辞めても失業保険はもらえない。自分で会社を儲けさせてその働きに相応しい(当然社員の給料より高い)役員報酬をもらい、それで自分の身を守らねばならないのである。「役員にオンとオフはなく、オンとスリープがあるだけ」というのは私の名言(?)であるが、いつ何時でも経営モードに頭が切り替わらないといけない。休日に温泉に浸かっていても、何かあれば瞬時に経営の事を考えないといけない。そういう意味で、「24時間モード」なのである。

 件の取締役は、残念ながら(雇われている)社員の意識のまま取締役になり、しかも悲しいかな人材不足で部長も兼務であった(私もそういう兼務ではあるが)。それゆえに就任前後でやる事は変わらず、そんな状況で「取締役としての意識を持て」というのも酷だったのかもしれない。天意を得たというほど大袈裟ではないが、中小企業であっても取締役になる以上、そのくらいの信念と考えはあってしかるべきだと思うのである・・・

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【今週の読書】
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久  【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店 またうど【電子書籍】[ 村木嵐 ] - 楽天Kobo電子書籍ストア





2025年6月12日木曜日

人生に無駄な事はない

 高校の時、将来の進路に悩んだ私は、単純に観た映画の影響で弁護士になろうと志し、大学は法学部を選択した。当時の大学生は入ってしまえばこの世の天下。授業にもろくに出ずに遊ぶのが世の雰囲気であった。しかし、私は両親に授業料を出してもらう以上はきちんと学ばなければとそういう世の風潮に反発し、学生時代は真面目に授業に出席して勉学に励んだ。しかし、3年になってそれまでの一般教養課程から専門課程に入り、ようやく本格的に法律の勉強に入ったが、1年間勉強してわかった事は、「法律は自分には合わない」という愕然とする事実。悩んだ末、弁護士という進路を変更し就職を選んだ。

 その変更は今でも1ミリも悔いていない。むしろよくきっぱり切り替えたと思う。ただ、恨めしく思うのは、一般教養課程という大学のカリキュラム。高校の延長のようなつまらない授業で、今でも何の意味があるのか疑問である。1年から専門課程に入れば良いと思う。そうすれば私も2年時には転部などにより他の学部で勉強ができただろうと思う。4年になった時点では、もはや留年してまで転部するという選択肢は親にも負担をかけたくなかったため取れなかった。それはそれでしかたがないが、せっかくの4年間なのであり、4年間専門課程でみっちり学べるようにすればいいのにと今でも思う。

 そういう経緯もあって、銀行に就職した私であるが、大学で法律を学んだ経験は、なんとなくあちこちで生きていると感じてきた。銀行員時代は不良債権の担当を長く続けたが、債権回収の現場では法的対応がどうしても視野に入ってくる。当然ながら弁護士と打合せを繰り返す事になるが、その時に大学で法律を学んだ下地というのが生きてきたのである。大学で学んだと言っても司法試験を受験したわけではない。弁護士と比較すれば学生レベルの知識などたかが知れている。だが、知識レベルというものではなく、強いて言えば「言葉がわかる」と言えるのかもしれない。

 法律は、(民事の場合)互いに争う原告と被告とが法廷で事情を知らない裁判官に自らの正当性を法律に照らして主張するものである。「実際にどうか」ではなく、「法律に照らしてどうか」である。それゆえに、「実際はこうだ」と主張しても始まらない。「法律に照らしてどうか」を主張しないといけない。このあたり、慣れない人にはわかりにくかったりする。また、弁護士も専門用語で専門的な話し方しかできない人もいて、慣れない人にはわかりにくかったりする。そうした専門バカ(と言っては失礼だが)の弁護士さんの話をスムーズに理解できるという事はしばしばあった。

 不動産業へと転職したあとは、大企業の金融証券取引法違反事件に巻き込まれ、横浜地検に事情聴取に呼ばれた事があった。社長や他の同僚と順番に呼ばれたのであるが、聴取の冒頭で「これは任意調査という理解でよろしいか」と検事に念を押した。当然ながら任意調査であり、途中で嫌だと思えば打ち切って帰れるわけである。担当検事は私の出身大学と学部を見て納得したようで、その質問に対しては丁寧に説明してくれた。もちろん、こちらにやましいことなど何もなく、全面協力のスタンスで望んだのであるが、しかしながら住所氏名のほかに学歴や財産状況まで事細かく書かされ、少なからずあまりいい気はしなかったのである。せめて「(拒否できると)わかっていて協力している」と示したかったのである。

 極めつけは、前職の退職後、元社長と争った裁判だろう。相手は弁護士を立てて訴えてきたが、私は弁護士に相談しつつも基本的に1人で受けて立った。相談した弁護士には初めから不利だと言われていたし、それは自分でもわかっていたが、それでも終始1人で裁判を続けて最後は不本意ながら和解で終わった。しかし、弁護士費用をかけずに終わらせたので、その点では経済的な損失は最小限にとどめられたと自負している。何とかできるだろうと思ったのも、法律的な論点がそれほど難しいものではなかった事もあるし、法律的な表現にも抵抗感がなかった事もある。訴えるのはさすがに無理だが、受けて立つなら何とかなるものである。

 最近ではまた会社対会社の訴訟になっている。今度は訴えた方。上場企業の理不尽にモノ申したわけであるが、こちらも最初から不利と言われている。筋論からいけば圧倒的に我が社の方が世間の同情を得られると思うが、契約上ではさすがに相手もよく身を守っている。当初から和解を想定しましょうと弁護士から提案を受けているが、できるだけ有利な条件で和解に持ち込みたいと考えている。されどやはり情勢は不利。しかし、ここにきて最後の反撃に出る事になった。「契約は口頭でも成立する」のであるが、であれば「契約は口頭でも解消する」のではないかと私が弁護士に投げかけたのである。

 弁護士も常に最適な手を打てているとは限らない。あるいは最適解を提案してくれていても、実は2番目の解の方が良かったりすることもある。言われるがままにすべてお任せとしていては、絶対にそういう事はわからない。詳しい事はわからなくても、要所要所で弁護士さんと話をし、相手の主張を説明してもらい、こちらの主張を考える中で思い浮かんだアイディアである。ただ闇雲に考えればいいというものではないが、法学部を出ていたからこそ、そうした対応が取れてきたのだと思う。

 「人生に無駄な事があると思えば無駄な事が起こり、無駄な事がないと思えば無駄はない」という言葉がある。その通りだと思う。大学4年の春、進路変更を決断した時、法学部に入って無駄な時間を過ごしてしまったと呆然とした。できれば別の学部に入りなおしてやり直したかった。しかし、振り返ってみると、法律の下地ができた事が今は自分の一つの強みであると思っている。今でも法曹界は私が進むには魅力の乏しい世界だと思っているが、それでも飛んでくる弾から身を守るくらいはできるようになっていると思う。まったくの素人よりもその「ほどほど感」が良いと思う。

 そういう意味で、学生時代に学んだ事は無駄ではなかったと改めて思うのである・・・


succoによるPixabayからの画像


【本日の読書】 
 存在と思惟 中世哲学論集 (講談社学術文庫) - クラウス・リーゼンフーバー, 村井則夫, 矢玉俊彦, 山本芳久 若い読者に贈る美しい生物学講義――感動する生命のはなし - 更科 功 【中古】 語りえぬものを語る 講談社学術文庫/野矢茂樹(著者) - ブックオフ 楽天市場店 またうど【電子書籍】[ 村木嵐 ] - 楽天Kobo電子書籍ストア




2025年6月8日日曜日

退職代行は必要か

 退職代行を巡って「ダイヤモンドオンライン」で二つの記事が目についた。一つが肯定的な『退職代行を使う人はどこに行っても通用しない?→ひろゆきの答えがド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』であり、もう一つが否定的な『退職代行は使っちゃダメ?→「転職のプロ」による直球解説がド正論すぎて、ぐうの音もでなかった』である。どちらが正しいかという比較は意味がない。どちらもそれなりに正しいと思うからである。ただ、自分だったらどうするかと問われれば、答えははっきりしている。「自分だったら退職代行は使わない」。

 前半はひろゆき氏の意見だが、ひろゆき氏は仕事にやりがいなんて必要ないし、自分の時代はアルバイトなんて「ブッチが当たり前」だったとしている。退職代行を使ってさっさと辞めればいいというもの。後半はキャリアコンサルタントによるもので、退職代行を使うようでは逃げグセがつくし、後々できる社員にはなれないというもの。私はどちらかと言えば後半の方の意見であり、自分でしっかり意思表示して手続きできないような人間はどこに行っても通用しないだろうと思う。

 もちろん、それはあくまで相手が「まとも」な場合であり、そうではなくて心を病んでしまった場合などはこの限りではない。退職代行も有効な離職手段であり、大いに活用すべきだろう。パワハラ被害に遭ったりした場合は、顔を見るのも会社に行くのもトラウマになるというケースもあるだろう。すべての場合を否定するわけではない。それにしても退職代行という商売はなかなかうまいところに目をつけたものだと思う。世の中にだいぶ認知はされてきたし、これはこれで面白いビジネスだと思う。

 息子が就職してもしも退職代行を使って退職したいと相談されたらなんて答えるだろう。まずは退職したいという状況を確認し、相手に問題がなければ当然「自分で直接意思表示して退職手続きを取れ」と伝えるだろう。それがまずは社会人としてのあり方だと思う。お別れの挨拶をきちんと済ますのは基本的なそれだろう。「ブッチ」など間違っても息子にはさせたくない。「ビジネスライク」という言葉があるが、いくらビジネスでも人と人との関係にあっては、しっかりと挨拶から始まり挨拶で終わる人間関係を維持したいところである。

 もともと私は、高校生の時には既に親に小遣いをもらわなくなっていたぐらい自立的・自律的な人間である。自分でやるべきことを他人にお金を払ってやってもらおうという考え方は欠片すらない。退職代行などもしも私の時代にあったとしても利用なんて考えすらしなかっただろう。相手に問題があればまだしも(私などは相手に問題があったとしても)、辞めるという事ぐらいさっさと伝えてしまえばいいだけだろうと思う。鼻くそを掘るくらい簡単な事を代行に頼むなんて想像もできない。

 煩わしい、面倒だという気持ちからなのかもしれないが、そんな無駄金を使うくらいなら、自分で「辞めます」と伝えてその分おいしいものを食べるとか、どこかに行くとか、ちょっと贅沢に趣味に費やすとかの方がよっぽどお金の有効活用になる。自分でできない事なら仕方ないが、できる事なら自分でやってお金は有効活用したい。そんな退職代行なんかに、辞めると言うだけの簡単な事にお金を使うという方が精神的な苦痛は大きい。そんな簡単な事ができないなんて、本当に大丈夫かとそっちの方が心配になる。

 「辞める」と言うだけの簡単な事ができないという事は、ちょっとややこしそうな事はすぐ敬遠したがるという事だろう。それでその後の人生を乗り切っていけるのだろうか。実際にはどんな人なのかわからないが、女性に振られるのが怖いと告白すらできない男のようにも思えてしまう。挨拶はできるのだろうか、わからない事はきちんと聞けるのだろうか、遅刻した時は「すみません」と謝れるのだろうか、人に何かをしてもらった時は「ありがとうございます」と素直に言えるのだろうか。そんな事まで考えてしまう。

 世の中には避けて通りたくなる面倒な事は山ほどある。それをいちいち避けていたら、乗り越える力などつくはずもない。そんなのは次から次へとひと足ふた足で乗り越えてさっさと次へ行くくらいの気概とパワーがないといけない。退職代行を使うのはまだ一部だろうが、そんな若者ばかりになったら日本の未来も暗澹たるものになるように思う。現代的なビジネスではあると思うが、それは一時の隆盛で、いずれ衰退していく方が日本の未来のためには安心であると思うのである・・・


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【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓







2025年6月6日金曜日

若返り

 先日、何気なく目に入ってきたテレビ番組で、老化についての研究の最前線の様子がレポートされていた。マウスによる実験では、実際に細胞が活性化し若返りが確認されたという。2030年代には実用化されるような可能性も報じられていた。実に素晴らしい。不老不死は太古から人類の夢であり、生物である以上、それは無理な夢かと思っていたら、どうやら不老は少し延ばせるのかもしれない。実用化されたとしてもそれは果たしてどのくらいのものなのだろうか。まさか永久的にとはいかないだろうが、平均寿命が120歳というようなレベルであれば素晴らしい事である。是非とも早期実用化を願うばかりである。

 シニアのラグビーをやっていて、愕然とさせられるのはシャワールームである。みんなの裸体が一目瞭然。たるんだ皮膚、皺。40代くらいまでだとまだ皮膚に張りがある。ところが私より上の世代では見事にたるんでくる。特に尻。老化の現実をもろに見せつけられる瞬間である。自分の背中とか尻とかは見えにくいが、たぶん似たり寄ったりなのだろうと悲観的な気持ちになる。パスのスピードも走るスピードも遅くなる。咄嗟のプレーに対応できない。「花園に出場した」という経験を語る人もプレーにその片鱗は見られない。私が目にしている老化の現実である。

 若返りが可能になれば、私のようにスポーツに勤しむ者はいつまでも十分な形で楽しむ事ができる。病気も減って国の医療費の軽減につながるだろう。何より個人の人生をより長く充実して楽しむ事ができる。良いことづくめのように思える。しかし、心配なのは年金財政だろう。今の制度ではあっという間に破綻してしまうだろう。今よりもさらに寿命が延びるわけである。支給開始年齢も65、70、75歳と延びていかざるを得ない。いったいいつになったら年金をもらえるのかわからなくなる。まぁ、その分健康寿命も延びれば働けるわけであり、自分の食い扶持は自分で稼ぐという事になるのかもしれない。

 さて、そうなった場合、世の中はどうなるのであろうか。定年が80歳まで延長されたら出世の階段も雲の上に届くくらい長くなるのだろうか。それでも階段を登れるうちはいいが、登れない人にとっては長い苦痛の時間か、プライドを傷つけられての忍耐の時間があるだけである。登れたとしても次の段までがまた長いだろう。そうなると、なかなか給料も上がらないかもしれない。今でもそういう動きはあるようだが、伝統的なピラミッド型の組織構造も変わっていくのかもしれない。

 個人的な経験からすると、やはり一つの企業に長くいるよりも幾つかの企業を渡り歩いた方が面白いと思う。50〜60歳くらいまでの間は最初の企業で頑張って生活の基盤を安定させ、後半は少しリスクを取って中小企業など自分が幹部として活躍できる場所に移れば面白い経験が積めると思う。出世の長い階段を前に立ち尽くすよりも、実力の蓄積と生活基盤を整える事に集中して、時期が来たら「第二の就活」に乗り出す事もできる。80歳までのビジネス人生を前半後半の二部構成で考えられる。

 もっとも怖いのは「精神の老化」だろうか。年齢を経てくると人間は間違いなくめんどくさがりになる。自分でやるより人にやってもらおうとする。新しいものは「わからない」と初めから敬遠するようになる。あえて自分から手を挙げようとしなくなる。昨日と同じやり方で今日を乗り切ろうとする。それが脳の働きが劣化することによる生物的・必然的な反応であり、それも若返り化によって改善されればいいが、単に精神的なものであるなら問題である。いくら体が若くても、「魂の老人」は若者の足枷となる。

 人間はなかなか自分の考え方を変えられない。年齢を経れば経験も加わって自分の考えが深まっていく。そうなると新しい考え方を受け入れできないところがある。我が社でも以前高齢の顧問とあるソフトウエアを巡って意見が対立した事があった。顧問には初めから否定されてしまい議論にすらならなかった事がある。最後はその話をしようとすらさせてもらえなかった。意見を聞いて試してみて、それでダメだと言われるならまだわかる。試しもせずにダメと決めつけられてはこちらとしても納得がいかない。「老害」とはこういう事かと思ったものである。私なら一通り相手の主張を聞いた上で判断するが、そう言っていられるのも今のうちなのだろうか。

 その昔、銀行員時代に支店の上司がサミュエル・ウルマンの詩を見つけて感動し、ご丁寧に支店の全員に配った事がある。
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言う」
というものであるが、当時はまだ若かったし、元々根っからの天邪鬼である私は、「年寄りが青春にしがみついている」と冷ややかに見つめていたが、サミュエル・ウルマンがその詩を書いた年齢に近づくに従って思うのは、青春よりも精神のアンチエイジングである。

 肉体の若返りももちろん素晴らしいが、併せて精神の老化は避けないといけない。若返りの薬が実用化された時、それが果たして庶民に手の届くものであるなら是非手にしたいし、その時にはそれにふさわしい精神年齢を維持したい。「実るほど頭が下がる稲穂かな」の精神は、意識すれば維持できる。若返り薬を期待しつつ、自分でできる精神のアンチエイジングは意識していきたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓





2025年6月1日日曜日

誕生日に思う〜論語雑感 子罕第九 (その4)〜

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子絕四。毋意、毋必、毋固、毋我。
【読み下し】
子(し)、四(し)を絶(た)つ。意(い)毋(な)く、必(ひつ)毋(な)く、固(こ)毋(な)く、我(が)毋(な)し。
【訳】
先師に絶無といえるものが四つあった。それは、独善、執着、固陋、利己である。
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 6月は誕生月である。毎年、その時に思うことを綴っている。この1年を振り返ってみて思うのは穏やかに過ごせてきたなという事。何か劇的な事が起こったわけではないが、何もないのが一番だとこの頃は思っている。娘は社会人、息子は大学生のそれぞれ2年目を迎えている。心を病んだりして、休職したり大学へ行けなくなったりという事もない。家族も病気になったりする事もない。両親はますます短期記憶が怪しくなっているが、それは年齢もあって止むを得ない。まったくもって平穏な毎日がありがたい。

 友人から招待券をもらい、ラグビーリーグワンの決勝戦を観戦してきた。新国立競技場は2回目であるが、その威容といい、雰囲気といい、秩父宮とはまた違った良さがある。招待されたのはプレミアムシートで、一般席とは椅子が違い座り心地がいい。秩父宮も一般席とちがって座席間の間隔が広く、背もたれもあったが、国立競技場はそれ以上である。廊下も絨毯であるし、人が少ないために静かでゆったりしている。そんな中での観戦は最高の誕生日プレゼントであり、友人には感謝しかない。

 会場では大学時代のラグビー部の先輩や後輩も来ていた。同じ友人の招待であるが、前回会ったのがいつかも覚えていないくらい久しぶりで、そうすると一瞬お互いがわからない。それでも「会ったことある」という思いから一生懸命記憶の糸を辿り、「あぁ◯◯さん」、「□□!」となったのである。30年ぶりくらいに会った先輩は言われないとご本人とはわからなかった。記憶にあるその先輩は、もっと痩せていて、カッコ良かったものであるが、今やただの親父であった。自分もそう思われていたのだろう。

 同期の友人2人はもう定年退職していた。家では奥さんに疎ましがれていて、一生懸命家事手伝いをしているという。今の時代は定年退職した後も家で威張ってゴロゴロしていられるわけではない。私は妻とは老後は別々に暮らしたいと思っているが、一緒に暮らすと家事をあまりやらなかった男は特に大変である。しかし、どんなにやってもベテラン主婦には敵わないし、それを良しとしない妻とは対立必至であり、ならば別居するのがお互いにストレス回避でちょうどいい。密かに温める私の老後プランである。

 両親を見ていると、いずれやってくる「老い」を意識せざるを得ない。この頃、被害妄想が出てきていて、近所の人が倉庫に盗みに入ったなどと言っている。そこで感じるのは、その人の根底にある人間性である。人に対しての根底にある想いが、認知能力が衰えていく中で現れるのではないだろうか。人に対して攻撃的になるか、寛容になるかである。残念ながら、我が母は攻撃的だ。以前はそれほどでもなかったから、たぶん表には出さなかったのだろう(妻には出していたのかもしれない)。人の振り見てではないが、自分は寛容でありたいと思う。今からしっかり人間性の奥底に刻みつけないといけない。

 この先も安定して今と同じ暮らしが送れるのかはわからない。会社が生き延びていければ大丈夫のように思うが、AI時代を迎え、システム開発の世界はどうなるかわからない。もしかしたら一気に仕事がなくなる時代がすぐそばまで来ているのかもしれない。そこは運命共同体。自分だけが助かる道を考えるのではなく、みんなで困難を乗り越えていくことを考えたい。今の会社に対して自分ができる事は何か。常にそれを意識していきたいと思う。最低でもあと9年は何とか今のまま働きたい。そのためにはできる事をやり続けよう。

 これから意識していきたいのは「いい老い方」。人間は歳をとれば若者の見本にならないといけない。そのためには日頃の行動からそれを意識していかないといけない。それこそが孔子に絶無と言われていたものであるように思う。「独善的になっていないか」、「何かに執着しすぎていないか」、「頑迷固陋になっていないか」、「利己的になってはいないか」がまさにそれではないだろうか。人生90年としたら、すでに自分は第四コーナーに差し掛かっているわけであり、その先のラストスパートに備えないといけない。いいゴールのイメージを描いて、みんなにスタンディングオベーションを受けられるように、これからやっていきたいと思うのである・・・



【本日の読書】
 百年の孤独 - G. ガルシア=マルケス, Garc´ia M´arques,Gabriel, 直, 鼓