平日は毎朝同じ時間に起きて、同じように顔を洗い、髭を剃り、ヨーグルトを食べてホットミルク(夏は冷たいミルク)を飲みながら哲学関係の本を読む。同じ時間に家を出て、同じ電車の同じ車両に乗り、同じ時間に出社して日経新聞を読む。いわばこれが私の朝のルーティンである。このルーティンであるが、良いのか悪いのかは何とも言えない。判で押したような同じ毎日の繰り返しという批判的な考え方もあるし、自分ではいつも通りの気安さがある。「いつもと同じ」は実に心地よいと感じられるものである。
ルーティンの良さは「考えなくて良い」というところにある。いつもと同じ電車のいつもと同じ場所に乗る。すると乗り替えの際も一々行き先を確認しなくても済む(そのホームには行先の違う電車が行き交うのである)。電車の中では読書タイムに充てているので、思考を中断されることなく読書に集中できる。「考えなくても良い」と言ったが、正確には「他に注意を向けられる」という意味でもある。
一方で毎日同じ行動をとっていると、「考えなくなる」というのも事実である。高校時代、ラグビーをやっていたが、練習は毎日ほとんど同じメニューをこなしていた。初めてだったから特に疑問など感じなかったが、大学に入って面食らった。そこでは自分たちの弱点は何か、試合で生かしたい強みは何かを考え、それに合わせて練習も考えていた。大事な試合の前には、相手の先方を想定してそれに対応する練習をやった。考えてみれば当たり前の事であるが、高校時代は考えもせず、教えられた練習を何の疑問も持たずに繰り返していたのである(だから弱かった)。
高校でやっていた練習も、実はきちんと意味があったのであるが、そこまで考えなかったのである。スポーツではルーティンも大切なところがある。イチローがバッターボックスに入ってからの一連の動作は有名だったし、ラグビーのゴールキックは正確性を期すためにルーティン化するのが良いとされる。練習でやった通りにやればやった通りになるという意味でのルーティン化は良いルーティン化であるが、何も考えないで同じ練習をするのは悪いルーティン化と言える。
そう考えると、ルーティンには「良いルーティン」と「悪いルーティン」があるのがわかる。我が職場でもルーティンおじさんとでも言いたくなる嘱託社員の方がいる。仕事はきっちりやっていただけるが、「異例」に弱い。というか嫌う。それはどうやればいいか考えるのが面倒なんだろうと思うが、決まった仕事を決まった通りにやるのが得意なのである。たまに「これはなぜこうやるのか」と聞いたりすると、「今までずっとそうしてましたから」という答えが返ってくる。どこにでもありそうな前例踏襲型のルーティンである。
私の場合、「昨日と同じ事を今日も明日もやる」というのは嫌いなので、何かもっと良いやり方はないかとかすぐ考えてしまう。オリジナリティにこだわる部分もあって、「これは俺が考えた」という仕事のやり方を作り出すのが好きだった。それは今でも「もっと良いやり方」を常に工夫するように部下も指導している。ルーティン化して良い仕事もあると思うが、たいていの仕事は「常に改善」をモットーにしてもらっている。仕事では基本的にルーティン化しないほうがいいものの方が多いように思う。
資格取得の勉強をしていた時期は、帰宅すると決まった時間を勉強時間に充てていた。これは「習慣化」と言えるが、こういうものはルーティン化すると抵抗感を減らせるかもしれない。今でも週3回、帰宅すると腕立て伏せやスクワットなど簡単なトレーニングをルーティン化している。そうすると、その日(月水金)はもうそれをやるという前提で帰宅するので、「どうしようか」などと迷う事もなく続けられる。私の場合、こういうルーティン化は結構好きかもしれない。
いずれ時が来て仕事を引退し、「毎日が日曜日」という日々を迎えたら、結構ルーティン化した毎日を送っているかもしれない。毎日同じ時間に起きてホットミルクを飲みながら哲学の本を読み、前夜観た映画のブログを書き、決まった時間に散歩に行き(ルートは何パターンか変えるかもしれない)、同じ時間に同じ喫茶店に行き、いつもの席でいつものコーヒーを飲みながら読書をする。夜は同じ時間に映画を観る。そんな生活を送っていそうな気がする。
考える事をせずにいいものはルーティン化し、そうでないものはルーティン化しないようにして考え続ける事を意識する。そんな風に分けて考えればいいのかもしれない。良いルーティン化はこれからも維持していきたいと思うのである・・・
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Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】


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