2024年3月17日日曜日

論語雑感 述而篇第七(その32)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感

【原文】

子曰文莫吾猶人也躬行君子則吾未之有得

【読み下し】

いはく、かざかくすはわれひとのごときかなみづか君子もののふたるは、すなはわれいまこれらざるかな

【訳】

先師がいわれた。

「典籍の研究は、私も人なみに出来ると思う。しかし、君子の行を実践することは、まだなかなかだ。」

『論語』全文・現代語訳

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 理論と実践ということなのであろう。ことわざにも「習うより慣れろ」というものがあるが、いくら理屈を捏ねまわしたところで、最終的に実践できなければ意味がない。あるいはいくら理屈がわかっていても、実践できなければ同様である。そんな例は巷に多々あるが、孔子の時代でもやはり同じような感じだったのだろうかと思う。理論と実践とどちらが大事かと言えば、「どちらも大事」としか言いようがない。実践できなければ意味はないが、理屈がわかっていないと実践できないということもある。


 ここのところ、私が参加するシニアラグビーチームでは、タックルの練習に熱が入っている。ラグビーでタックルは大事なのであるが、なかなかうまくできない人もいる。上手い者がコツを説明するのであるが、練習はともかく、試合になるとなかなかできなかったりする。もちろん、練習と試合では相手の本気度も違うし、必ずしも練習通りにできるものでもない。ただ、うまくできない人は理屈はわかっているが、タックルで一番大事なものを見落としていたりするので、うまくできないように私には見える。


 タックルで一番大事なのは、なんと言っても「気迫」である。「相手を倒してやろう」という気迫がないと、いくら理屈がわかっていても相手に弾き飛ばされてしまったりする。気後れして及び腰になっていたりすると、理屈通りには相手を倒せない。逆に気迫さえあれば、多少理屈から外れていても倒せてしまったりするのである。では理屈は必要ないかと言えばそうではない。気迫があるのはもちろんであるが、うまく倒そうとすればやはりある程度の理屈は必要である。それがわかっているとうまく倒せたりする。私も暇を見つけてはYouTubeで最新の理論を勉強している。


 仕事でも最近は取締役の役割を巡って議論がある。どうも一部の役員の言動には取締役らしからぬものがある。取締役は「社員の延長」ではない。社員は雇用契約を結んで会社に雇われる。労働基準法による保護を受け、失業すれば失業保険ももらえる。しかし、取締役は会社の株主から委託を受けて会社の経営をする。したがって雇用契約はなく、失業保険もない。社員から取締役になるにあたっては、退職して退職金をもらう。我が社では社員の最高位は部長であるが、そうした事の意味をよく理解できていないのであろう、いまだに「部長」のままの言動が目につくのである。


 私はもともと理屈っぽいところがあると人によく言われる。言われる通りの「屁理屈やろう」かもしれない。しかし、何より理屈は大事だと思っている。「お前には理屈では負ける」と言われるが、それは裏を返すと「筋が通っている」という事に他ならない。うまく説明できないのを自分の表現力のなさだと勘違いしている人が多いが、単に筋が通っていないだけであろうと思う(と理屈をこねるのである)。しかし、やはりきちんとした理屈がないと実践を支えられないだろうと思う。結果を出すためには実践が大事であり、そして何よりも結果を出すためにはしっかりした理屈が必要なのである。


 理屈の世界をしっかり固めて、そして実践。どちらも大事であり、どちらかだけでは片手落ちとなる。屁理屈やろうと言われようと、常に理屈はしっかりと押さえておきたいと思うのである・・・


AnjaによるPixabayからの画像


【本日の読書】
世界一流エンジニアの思考法 (文春e-book) - 牛尾 剛  失われた時を求めて(3)――花咲く乙女たちのかげにI (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義





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