このところX(旧ツイッター)をチラホラ眺めている。見るだけでつぶやきはしないのだが、いろいろな考えが発信されていて興味深い。このところ福島の処理水の海洋放出を巡る意見に目が留まる。賛否両論を読んでいると(と言っても圧倒的に反対論が多い)、自分も考えてしまう。そもそも論として、「貯水の限界」があると思う。事故から12年半経っていて、その間ずっと冷却しているわけだから、その冷却水をずっと貯められるのも凄いと感じてしまう。しかし、それにも限界があるのは当然なわけで、海洋放水という出口に行きつくのも当然だと思う。海洋放水の議論はここから始まっていると理解している。
反対論は、一言で言えば「危険な水を海洋に放水するな」ということになる。ここから、議論は「安全だ」、「安全でない」というものに終始している(ように思える)。一体、どちらなのか。「安全」なら海洋放水に何の問題もないのは当たり前で、そうでないなら海洋放水などするべきでない。そこが我々にはわからない。「トリチウム」という物質が焦点になっているようだが、これは安全基準の40分の1というレベルのようであり、それだけ聞けば問題はなさそうに思う。しかし、反対論の中には、トリチウム以外の物質についてチェックしていないという。
それに対しては、トリチウム以外にもチェックしているという反論もあり、その範囲も考えると素人的にはついていけない。一つの指標として、外部の専門機関の意見はどうなのかと言えば、国際的な権威であるIAEAの査察を受けて「問題なし」とお墨付きを得たことを考えれば、やはり問題ないと思わざるを得ない。そもそももうこれ以上貯められないという問題をどう解決するのかが気になるところ。問題の出発点があるわけで、その解決策を提示しない反対論は意味がないと思う。個人的には「代替論のない反対論」は意見として認めたくないという思いがある。何らかの問題があって意見を出しているのであり、反対するならその問題をどう解決するかを提示しないといけない。
では、この点はどうかというと、「敷地はある」というのがその代替論。どのくらいなのかまでは示されていないが、ではこれが代替論として相応しいかというと、「敷地がなくなるまで問題を先送りするのか」と考えてしまう。それはどうだろうと思う。敷地に余裕がなくなってから議論するよりも、早い段階で(と言っても12年半も経っているが)議論すべきであるのは言うまでもない。どちらが正しいのかという事に関しては、個人的にどちらの肩を持つつもりもなく、中立的に考えているが、そこにももしかしたらバイアスがあるのかもしれない。
反対論の主張者の中には「何でも反対」の人がいる。政府のやることはとにかく間違っていて、間違ったことばかりであると思っているのだろう。共産党の人はその最たる人たちである。そういう「何でも反対」の人は、それだけで「またか」と思わされる。その点、「是々非々」で意見を言う人であれば、その都度「どんな意見なんだろう」と聞いてみたいと思わされる。それは逆に「何でも賛成」の人にも当てはまることで、やはり数は少ないが、政府のやることをいつも擁護する意見を主張している。
「何でも反対」でも「何でも賛成」でも信頼性は薄い。「是々非々」の人に関しては、信頼性は高い。本当は是々非々の人の意見だけ聞ければいいのだが、そうもいかない。であれば、賛成反対それぞれの意見を聞いて、自分の中でバランスを取って考えるしかない。福島の処理水の海洋放出については、自分に直接何の利害関係もないので、比較的冷静・公平に考えられる。しかし、それでも何が正しいのか判断に迷うのは、結局のところ「安全か安全でないか」が我々にはよくわからないということに尽きる。そこで「安全」というのに100%を求めてはいけないが、もう少し分析結果を詳しく公開したらいいのではないかと思えてならない。
こういう議論を読んでいると、自分が何かの立場を主張する時の参考になる。身近なところでは仕事での議論だが、常に是々非々で判断する態度と、事実に基づいて考えるスタンスは大事だとわかる。取締役会で、常にある役員の意見に否定的だったり、肯定的だったりではなく、是々非々で判断する。誰にでもわかりやすい事実を根拠として自分の考え方を説明する。そういう態度が、他の人の信頼を得る元になるように思う。感情論を振り回すのは論外だろう。
たまにはXなどを除いて、そういう賛否論に触れて見るのも悪くはないと思うのである・・・
Susanne Jutzeler, Schweiz 🇨🇭 suju-fotoによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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