【原文】
子曰、「述而不作、信而好古、竊比於我老彭。」
【読み下し】
曰く、述べ而作らず、信じ而古を好む。竊に我を老彭於比ぶ。
【訳】
先師がいわれた。
「私は古聖の道を伝えるだけで、私一箇の新説を立てるのではない。古聖の道を信じ愛する点では、私は心ひそかに自分を老彭にも劣らぬと思っているのだ。」
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昔の偉人の言葉や、昔から伝わる真理を大切に思うのは大事なことだろう。人間は言葉を用いて後世に教えを残すことができる。孔子の時代は2,500年ほど前であり、その時代に既に古の教えがあったのだろう。確かに時代を経ようと変わらぬ知恵や教えというのはあるだろうから、そういうものを大事にするのは悪い事ではない。しかし、一方で時代の変化に合わせて変えて行くことも大事だと言われるのも事実である。
よく老舗の料亭や食品会社などで、伝統の味として長年守られているものが、実は時代の変化に合わせて少しずつ味を変えているということを聞いたことがある。それで成功しているのであるから、それもまた真実であると言える。年末に義母の葬儀があったが、お坊さんのお経を聞き流しながら、つらつらと考えた。仏教もまた大きく変わった最たるものだと思う。仏陀の始めた仏教は、死者を弔うものではなく、解脱のための修行のものだったことを考えれば、その変化はお釈迦さまもびっくりだろう。
古くから伝わるものをそのまま変えずに受け継ぐのが良いのか、それとも必要に応じて変えても良いのかはケースバイケースであると思う。「古聖の道を信じ愛する」のが悪いとは言わないが、やはり「必要に応じて変えるものは変える」というスタンスが良いと思う。それは、その時その時点では確かに真理であったであろうことも、時代の変化の中で状況が変われば同じ事は当てはまらないであろうことは容易に想像できるからである。状況が変わっているにも関わらず、金科玉条の如く教えを守るのは何も考えていないのと同じである。
私は基本的にどんどん変えていくタイプである。だから、古聖の道を金科玉条の如く守る孔子の言葉には違和感を覚える。孔子の言葉を集めた論語の言葉でさえ、今でも通じるものとそうでないものがある。それは2,500年も経っていれば当然である。逆に日本の茶道にある「守破離」の考え方の方がしっくりくる。師匠から教わった型をしっかり「守」り、その上で自分にあった型を模索し試すことで既存の型を「破」り、そこから「離」れていくというものである。
そもそも儒教には祖法を絶対視する傾向があるという。ここにある孔子の言葉もその考え方の中に捉えられているのかもしれない。こうした儒教的な考え方は、清朝を滅ぼしたのだという説がある。祖法絶対に囚われ、日本のように西洋の進出に合わせた対応ができず、旧態依然とした体制から脱することができないまま滅んだというものである。その真偽はともかく、変化に対応できないというのは致命傷になるだろう。古いものがすべてダメというわけではなく、適切な取捨選択ができないのがダメなのである。
そもそもこうした何かの「権威」を絶対視する傾向は、我々日本人には多くあると思う。お役所の前例踏襲主義もその一つと言える。そうした考え方は、はっきり言えば「思考停止」に他ならない。何が良くて悪いのか、それを自分で考えて判断できないから盲目的に従う。自分で考えて判断できれば、古いから良い悪いではなく、現状に合うか合わないかで判断できる。できないから盲目的に従う。そうすれば楽である。自分で責任を負いたくないという考え方もあるだろう。
責任という考え方も大きいと思う。間違えた時に自分の責任にされないためには確かな「権威」=「前例」に従うというのがもっとも楽である。会社でも「社長が言ったから」、「部長が言ったから」と言えば責められることもない。サラリーマン的には責任回避のいい言葉である。孔子が責任回避や思考停止に陥っていたとは思わないが、この言葉が一人歩きすると危険であると思う。
自分は常に何かを盲目的に信じるということは避けたいと思うのである・・・
Christo AnestevによるPixabayからの画像 |
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