週末はシニアラグビーの試合があった。6月だし、雨だと嫌だなと思っていたが、土曜日から梅雨はどこへやらの真夏の暑さ。そして試合当日も快晴。こうなると、この時期暑さが敵に回る。雨の中の試合も嫌だが、高温下の試合も50も後半の肉体にはキツい。それでも20分ハーフの試合を前後半とこなして気持ちの良い汗を描く事ができた。7月に入れば梅雨が復活するのかと思っていたら、なんと梅雨が明けてしまった。例年にない夏の到来に驚きばかりである。
訃報が届いたのは、翌日の月曜日。なんと一緒に試合をしていたチームメイトが、試合後の帰宅途中に倒れて亡くなったとのこと。ついさっきまで一緒に試合をしていて、「上手くなった」と褒めてくれたばかり。しかも年齢は私と同じである。先月は高校時代の友人が亡くなり、今度はチームメイト。YouTubeにアップされた試合の動画では、彼は溌剌とプレーをしている。そしてそこには私もいる。しかし、彼はもうこの世にはいない。試合で楕円球を追う彼は、まさかそれが人生最後の日、最後の数時間だったとは夢にも思っていなかっただろう。
そういう自分も、死は他人事である。自分が死ぬという想像はできない。それにはなんの根拠も保証もない。今自分が死んだらどうなるだろうと考えると、家族の混乱は想像できる。それを考えると、事前にいろいろと準備しておく必要があると感じる。生命保険の証券はわかりやすいところに置いておく必要があるし、預金などの金融資産もわかるようにしておかないといけない。住宅ローンは生命保険付きなのでチャラになるが、手続きはわかるだろうか。葬式は家族葬で構わないが、友人には連絡してほしい。ならば連絡先もわかるようにしておかないといけない。
貸したお金はいいが、預かっているお金は返さないといけないからまずい。管理のためとは言え、自分名義の口座に入っているから家族にはわからない。そのあたりは紙に書いて保険証券などと一緒にしておく必要があるだろう。仕事では迷惑をかけてしまうが、これはどうしようもない。まぁ、しばらくは混乱するだろうが、会社が傾くほどではないから「みなさん、ごめんなさい」というところだろう。親より先に行くのは何より親不孝な気がするので、できるなら順番を守りたいところである。
先日読んだショーペンハウアーの『孤独と人生』の中で、人は満足していることより不満な事が気になるものだという事が書いてあった。全身健康であっても、靴の中に小石が入っていたりすると、たちまち不快=不幸を感じると。ちょっとした痛みの方が気になって仕方がなくなるというのはその通り。人はむしろ不幸を回避することを心がけるべきだという指摘はもっともである。ハワイに行きたいがなかなか行けないと嘆くのではなく、今日も無事1日を終えられたことを素直に感謝すべきなのだろう。
この時期、日中外出すると猛烈な日差しで汗が噴き出てくる。エアコンをつけっぱなしにすれば電気代が気になるし、夜はエアコンをつけて寝ると体調を崩す事が多い私は窓を開けて寝るが、夜はやはり寝苦しい。それでも寒さに震える冬にあっては、真夏の太陽が懐かしかったりするので、今がその時だと思えば少しは気分も晴れる。暑いのも生きているから。「貴方が虚しく過ごした今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」とは韓国の小説『カシコギ』の言葉。今日、自分がいつものように終えようとしているこの1日は、生涯を終えた友が生きられなかった1日なのである。
そう考えれば、暑さもまた愛おしい気持ちになる。先週末の試合では、タックルでまた首を痛めてしまった。なんでいい年してラグビーなんてまだやるのか。最近、自分でもそう思わなくもない。ただ、やめたら後悔する気がする。人間は年齢と共に少しずつ手にしたものを失っていく。視力は既に老眼の世界だし、髪も筋肉も記憶力ももう昔のようにはならない。いずれできなくなるとしても、その日までは楽しみたい。1本でも多くの映画を観て、1冊でも多くの本を読みたい。
今日は見事な夕焼けであったから、明日もまた暑いのだろう。だが、それもまた生きている証。仕事では問題が山積しているが、仕事があるから悩めるのも確か。幸い、仕事ぶりは評価してもらえていて、小さい会社ながら役員になることになったし、問題もまた楽しからずやである。週末は、両親を連れて温泉である。少しは喜んでもらいたいと毎年連れて行っているが、それも後どのくらいできるかと思うと、「今のうちに」と思う。この頃は、誰かに喜んでもらえると、それだけで気分がいいと感じる。