およそ人の世は都合よくできていない。「なんでこの人が」とか、「なんでこのタイミングで」とか、そういう嘆きは世に満ち溢れている。肝心の大一番の試合を前にチームの中心選手が怪我をして試合に出られなくなったり、1年間一生懸命勉強してきた受験生が試験当日に熱を出してしまったり。それはやはり運・不運という言葉でしか説明できないものかもしれないが、時に神様を恨みたくなることも少なくない。伯牛という人もそんな不運に見舞われた人だったようである。
孔子がこれほど嘆くという事は、伯牛という人はそれほど有能で高潔であったのだろうと推測される。というのも、人が他人から惜しまれるという事は、「能力」と「人柄」とがともになければならないと思うからである。一見、重要なのは「人柄」の方だとは思うが、スポーツや仕事などの組織目標がある場合は、「能力」も欠かせない。「人柄」だけでは組織目標を達成できず、その場合は「いい人」であることは好影響を与えない。伯牛という人もきっと世の中に、あるいはその周りの人に大きな影響を与えられる「能力」があるからこそ孔子に惜しまれたのだと思う。
もちろん、「人柄」も大事である。たとえばチームの中心選手が、あるいは会社で仕事のできる人が、「このチーム(会社)はオレでもっている」と普段から天狗になっていたとしたら、チームメイトや同僚はいい気分がしないだろう。面と向かって反論はできなくとも、内心快くは思わないだろう。そんな傲慢な中心選手が大事な試合の前に怪我をして試合に出られなくなったとしたら、果たしてチームメイトは嘆き悲しむだろうか。もしかしたら、たとえ試合に負けたとしても心の通ったチームメイトとともに戦いたいと思うかもしれない。負けてもむしろ満足するかもしれない。
一方、人柄はいいけどチームには貢献できないチームメイトがいて、当日の試合もそのチームメイトのミスでやっぱり試合に負けたとしたらどうだろうか。組織目標としての勝利は得られなくとも、私であれば「一緒に試合に臨んだ」という点をもって良しとする。ただ、そこではチームとしての成績は諦めないといけない。私のやっているシニアラグビーのように試合そのものを楽しめれば満足という事であればいいが、それでもやる以上はやはり勝った方が圧倒的に面白い。会社も業績悪化で給料・賞与ダウンとなれば心穏やかにはいられない。
そう考えてくると、やはり惜しまれる人は「能力」と「人柄」という二つの要素が必要なのではないかと思える。自分もそういう「惜しまれる」人になりたいと思うし、であれば「能力」と「人柄」を身につけたいと思う。その「能力」は、「才能」よりも「努力」の部分にかかっていると思う。と言うか、才能に恵まれていないと自覚するのであれば、悲しいかな努力で補うしかない。それに対して「人柄」はさしたる努力もいらないように思うが、それも人次第かもしれない。いきなり人柄がよくなろうと思っても、なれるものではないだろう。
私も自分の人柄が良いかどうかはよくわからない。それは結局、人が判断する事だからである。どうすれば人柄が良くなるのかというと難しい。ただ、突き詰めて考えていくと、「他人のことを考えられる」ということが重要なファクターであるように思う。自分の事ばかり考えるのではなく、常に周りの人のことも考えて行動する事で、人に喜んでもらえる人間になれるのではないかと思う。そういう人こそ、いなくなれば惜しまれるのだろうと思う。
ラグビーのチームでも会社でも、1人でやるものではない以上、他人との連携が大事である。稲盛和夫氏の説く「利他の心」と絶え間ない努力でチームや会社に貢献してこそ、惜しまれる存在になれるのではないかと思う。自分もいい年であるし、そうした人に惜しまれるような人間になれるように、これからも心掛けたいと思うのである・・・
meineresterampeによるPixabayからの画像 |
0 件のコメント:
コメントを投稿