キリスト教やイスラム教や仏教など世界的には数多くの宗教がある。なぜ人は神(仏)を信じるのか。専門的に研究している訳ではないから確かなことが言える訳ではないが、その理由の1つに「不安」があると思う。宗教は人間に生じる「不安」に対する1つの「救い」の手段であると思うのである(救いの対象はもちろん不安だけではない)。そしてその「不安」とは、「不幸な未来を迎える可能性に対する恐怖」である。
これは人それぞれいろいろなものがあり、不安とは無関係に生きることはできないであろう。この春、息子が高校受験を経験したが、受験前にポツリと不安だと漏らしていた。この場合、その正体は「不合格となる恐怖」である。私も経験があるが、絶対に合格するという確証が得られない限りは、この不安からは逃れられない。最終的に息子がこの不安から解放されたのは、第一志望の都立高校に合格した瞬間である。終わってみれば、不安は雲散霧消。いったい何だったのだろうかというくらい他愛のないものになるが、抱えている時は深刻である。
私も高校受験、大学受験の時にはもちろん不安に慄いたのを記憶している(高校の時よりも大学の時、それも現役の時より浪人の時の不安の方が大きかった)。不安はさらに「孤独」によって増幅される。大学受験の浪人中は宅浪であったから、孤独の中で不安に押しつぶれそうになることもしばしばであった。その後も公私それぞれで大なり小なりの不安を感じてきていたが、今でも記憶に残っている大きな不安を抱えていた時は、夜眠れなくなることも経験した。起きている間中も四六時中不安が脳内を占領し、食事ものどを通らない有様だった。その時はそんな私の異変を子供たちも敏感に感じていたらしいから、相当だったと思う。
そうした不安からは逃れる術がない。なぜなら、それは可能性に対する恐怖であり、そうである以上、その可能性が消えない限りは解消されないからである。できるのは「緩和」だけである。「緩和」の方法は人それぞれであるが、趣味に没頭したり、誰かとおしゃべりをしたり、あるいは酒に逃れたりするのかもしれない。さらには冒頭に挙げた様に神頼みをするのかもしれない。いずれも不安を解消することはできないが、軽減することはできる。心を許せる友人や家族に話すことで気持ちが軽くなるということはよくあることである。
私が7年前に人生最大の不安を抱えた時は、近所の神社を訪れた。ふだん、「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」が信条の私としては、神頼みはもっとも遠い手段であったが、その時は「神頼み」ではなく、単なる「お参り」であった。朝、早い時間に起きて(目が覚めて)、しんと静まり返った神社の鳥居をくぐり、手水を使い、賽銭を入れて二礼二拍手一礼の参拝手順を守って頭を垂れる。それだけであるが、なぜだかいい結果になる様な気がして心が落ち着いたのである。その時、宗教の大きな意義を感じたのである。友人や家族の暖かい励ましの言葉もいいだろうが、それに勝るとも劣らぬ効果があったのは確かである。
受験やスポーツの大事な試合などというものに対する不安であれば、それは自助努力でなんとかできる。不安を緩和する方法は、ひたすら「自分はできる」と思い込むこと、そしてそれを裏付ける努力である。「これだけやってダメなら笑おう」という境地に達することができれば不安はだいぶ解消されるだろう。これに対し、自助努力ではどうにもできないものはどうしようもない。ダメだった場合にどういう対処策を取るかひたすら考えるしかない。
ダメだった場合、どうするのか。少なくとも準備しておけば、そういう事態になっても動揺することはないだろう。諦めて淡々と準備した対応策をとるしかない。その時、怖いのは「引き寄せの法則」だろう。人は強く思っているとそういう事態を引き寄せてしまうという法則である。考えに考えて準備したがゆえにその望まぬ結果を引き寄せてしまったとなればシャレにならない。ダメだった場合の対応策をある程度準備しつつ、うまくいくと信じてそう思い込めば、不安は解消されるかもしれない。
幸いなことに、7年前の大きなピンチ以来、大きな不安に苛まれることはない。小さな不安は、私の元々の性質なのかそれほど思い煩うことなくやり過ごせてしまう。自助努力でなんとかなるものについては、そもそもあまり不安を感じないし、感じた時には「できる」と気合を入れるか、「なんとかなるだろう」と気楽にやり過ごすかしてしまう。ただ、会社の資金繰りなどは「不安のモグラ叩き状態」なのは確かである。
これからも生きていく上で不安を感じることなく過ごすことは不可能だろう。ある日突然やってきて、それはおそらく回避できない。しかし、恐怖心も裏返せば危機回避という点で役に立つ。適度な不安は自助努力を促したりするのにいいかもしれない。逃げられないものであればうまく付き合うしかない。願わくばまた神社に参拝して心の平静さを保つ必要があるような強度の不安にはさらされたくないということである。いつ生ずるかわからない不安に備えては、心の耐性を高めるていきたいと思うのである・・・
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