子供の頃は、みんながそうだったと思うが、私も童話が大好きであった。そんなこともあってか、自分の子供が小さい頃は、図書館で童話の紙芝居を借りてきてよく読んであげたものである。それは子供を楽しませたいという思いもあったが、自分ももう一度読んで楽しみたいと思ったのも事実である。そんな童話の数々は、今改めて振り返ってみると、子供の頃とはまた違う見方ができるなと思う。
「十二支の始まり」は、なんでネズミが一番最初にきて、なんで猫が十二支に入っていないかという話。ネズミが猫を騙し、早起きの牛の背中に乗ってゴール直前で飛び出したというもの。それ以来、ネズミは騙された猫に追われ続けている。参加メンバーの中でネズミは最小、足もうさぎや犬、馬などの強敵から比べれば太刀打ちできない。誰が優勝するか事前に予想したら、おそらく犬や龍、うさぎ、馬といったところが優勝候補の筆頭だったと思う。その中で足の遅い牛と小さなネズミが1、2位を占めたのは、まさに作戦勝ちである。
この競争には「いつスタートするか」という決まりがなかった。そこで足の遅い牛は、いち早く起きて出発という作戦を取る。亀との競争で不覚をとったウサギは、今回は同じ轍は踏まなかったようであるが、牛ほどの戦略性には欠けていたと言える。自分の欠点を嘆くではなく、いかにしてカバーするかを考えた牛は見事である。そしてその情報を素早くキャッチし、利用したネズミも見事である。猫を騙した部分はどうもいただけないが、ルールを熟知し、己の力を生かしたネズミと牛が勝ったのは見事である。
「都会のネズミと田舎のネズミ」の話は、リスクとリターンの話である。田舎の食べ物は魅力に乏しい。都会に招待された田舎のネズミは、都会の食べ物の美味しさに目を見張るが、人間や猫といった外敵の存在に、「やっぱり田舎の方がいい」と帰っていく。安全を取るか、利益を取るか。どちらがいいかという話ではなく、「リスクなくしてリターンなし」という話なのであるが、どうも「田舎の方がいい」という教えになっているのが気になるところ。単純に「田舎の方がいい」と思う人は、もう少し考えてみる必要があると思う。
「金の卵を産むガチョウ」の話は、1日に1つ金の卵を産むガチョウを手に入れた農夫の話である。1日1つの金の卵に満足できず、農夫はもっとたくさんと欲をかいてガチョウの腹を裂くという暴挙に出てしまう。その結果、腹のなかからは何も出てこず、次の日から金の卵も手に入らなくなったというもの。ガチョウの腹の大きさと金の卵の大きさを比較すれば、損得は簡単にわかりそうなものであるが、人間は得てして目先の利益にとらわれがち。株式投資や不動産投資で、似たような事例は多い。
「マッチ売りの少女」の話は、「フランダースの犬」とともに子供心に涙した話。寒い大晦日に幼い子供にマッチを売りに行かせるというのは、今で言えば虐待に当たるだろう。多少なりとも戦略が考えられれば売れそうなターゲットや方法を模索したと思うが、幼い少女にそんなことは期待できない。絶望的な中、マッチを擦ってそのほのかな灯りの中に幸せを見出そうとした少女の心情が悲しい。翌朝、少女の亡骸を見た大人たちは、それを哀れに思う前に、なぜマッチを買ってやらなかったのか自問自答すべきであると憤りを覚える。
こうした物語の背景には、かつてのヨーロッパの貧しい時代が反映されていると思う。「フランダースの犬」もそうであるが、物語で描かれているのは貧困だ。マッチはおそらく職人が作り(少女の父親だったかもしれない)、それを売って利益を上げるのに人を雇っていたのでは採算が取れない。そこで(無償の労働力である)家族に行わせたのであろう。非道に思える父親もマッチの生産に追われていたのかもしれないし、原料の仕入れから製造まで1人でやっていたと考えると、生産で手一杯だったのかもしれない。虐待を責める前に、事情を確認する必要がある。
シンデレラは父親の再婚によって不幸になる。継母に快く思われず女中扱いされるようになる。再婚の経緯はわからないが、実父は継母に頭が上がらなかったのだろう。王宮に招待されるからにはそこそこの家庭だっただろうから、ひょっとしたら傾いた家系を継母との再婚によって再興させていたのかもしれない。そして1人留守番をするシンデレラの前に現れたのは魔法使いのおばあさん。魔法使いも白雪姫では悪役だが、ここではいい役柄。夜中の12時までの魔法の物語は、どうにもならない現状を紛らわせるための、庶民のささやかな願望から生まれたのかもしれない。
「みにくいアヒルの子」も、変身願望と言えるかもしれない。不遇なる境遇にあっても、いつかは自分も羽ばたけるかもしれない。そう思えば不遇も耐えられる。否、せめてそうとでも思わなければやっていられないというのだったかもしれない。なんとなくヨーロッパの童話というのは、背景に「哀しみ」を感じるものが多いように思う。心正しきものが救われるというのは万国共通かもしれないが、最後は王様と結婚して幸せに暮らすというパターンは、「今の境遇からの脱出願望」があるようにも思える。
一方、日本の童話では、「正直爺さん、いじわる爺さん」のイメージがある。こちらも「正直は美德」というのが根底にあるのだろう。かく言う私も、「正直に生きよう」と健気にも誓ったものである。もちろん、それはいいことであるが、今でもそう思う。ネズミは猫を騙す必要はなかったと思うのも、そういう正直爺さんの考え方が浸透しているからだと思う。欧米流の経済合理性もいいが、ビジネスの現場でも「正直爺さん」の精神は大事だと思う。
何気ない童話でも奥が深いと思う。これまで読んできた数多くの童話だが、今までの人生経験を踏まえて読み返してみたら、また違った感想を持つのかもしれない。暇を見てそんなこともしてみたいと思うのである・・・
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