【 原文 】
孟武伯問。子路仁乎。子曰。不知也。又問。子曰。由也。千乘之國。可使治其賦也。不知其仁也。求也何如。子曰。求也。千室之邑。百乘之家。可使爲之宰也。不知其仁也。赤也何如。子曰。赤也束帶立於朝。可使與賓客言也。不知其仁也。
【 読み下し 】
孟(もう)武(ぶ)伯(はく)問(と)う、子路(しろ)は仁(じん)なるか。子(し)曰(いわ)く、知(し)らざるなり。又(また)た問(と)う。子(し)曰(いわ)く、由(ゆう)や、千(せん)乗(じょう)の国(くに)、其(そ)の賦(ふ)を治(おさ)めしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。求(きゅう)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、求(きゅう)や、千室(せんしつ)の邑(ゆう)、百乗(ひゃくじょう)の家(いえ)、之(これ)が宰(さい)たらしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。赤(せき)や何如(いかん)。子(し)曰(いわ)く、赤(せき)や、束帯(そくたい)して朝(ちょう)に立(た)ち、賓客(ひんかく)と言(い)わしむべきなり。其(そ)の仁(じん)を知(し)らざるなり。
【訳】
【訳】
孟武伯が先師にたずねた。
「子路は仁者でございましょうか」
先師がこたえられた。
「わかりませぬ」
孟武伯は、しかし、おしかえしてまた同じことをたずねた。すると先師はいわれた。
「由は千乗の国の軍事をつかさどるだけの能力はありましょう。しかし仁者といえるかどうかは疑問です」
「では、求はいかがでしょう」
先師はこたえられた。
「求は千戸の邑の代官とか、百乗の家の執事とかいう役目なら十分果たせましょう。しかし、仁者といえるかどうかは疑問です」
「赤はどうでしょう」
先師はこたえられた。
「赤は式服をつけ、宮廷において外国の使臣の応接をするのには適しています。しかし、仁者であるかどうかは疑問です」
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人にはそれぞれ得手不得手がある。不思議なもので、我が家でも娘は小学校の時、算数は得意だが社会が苦手であったが、息子は逆に算数が苦手で社会が得意であった。親子でも私と息子は足が速くて野球が好きでという共通点はあるものの、私はバレーボールが苦手だったが息子は得意な方だという。私の父親は子供の頃、長距離が得意だったそうであるが、私は短距離派である。十人十色と言われるが、人は同じ遺伝子を持っていても皆それぞれである。
それは一体何故なのか、よく考えてみれば当たり前のようであり、当たり前でないようでもある。もしも当たり前だというのであれば、今の教育システムのあり方はそれでいいのだろうかという気もする。一応、義務教育は一律でいいとして、高校から先は普通高校に加えて工業高校があったり商業高校があって、大学では文系理系の違いがあって、それぞれ得意な分野を選択できるようになってはいる。
ただし、現実的には総合的にできるのが良しとされ、工業高校や商業高校に行くのは、普通高校に行けない「落ちこぼれ」的なイメージが根強い。そして普通高校へ進学し、文系理系の別があったとしても大学進学するのが普通と世間ではされている。それが証拠に大企業は大学新卒一括採用が中心。ルートから外れれば、まず大企業への就職はままならない。それがすべてとは言わないが、それ以外から這い上がろうとするとなかなか大変である。
高校時代のラグビー仲間は2人を除き皆大学へ進学した。そして普通に就職してサラリーマンになっている。しかし、大学に進学しなかった高卒組は、それぞれ自分で会社を経営したり、業界の著名人になったりしてサラリーマンよりも稼いでいるみたいだ。ルートを外れてもできる奴はできるし、できない奴は底辺をさまよう。その振幅はサラリーマンよりも大きい。だから世の親は安全策をとってルートに乗るようにと考えるのであるが、どちらがいいかは人それぞれである。
ルートに乗るのが良いのか外れるのが良いのかも人それぞれだろう。算数でも国語でも社会でもなんでも満遍なくよくできて、高校・大学とそれなりのところへ進学して、大企業にでも就職すれば親としては大満足だろう。しかしながらそれは由や求や赤の姿のようではないかと思う。孔子からみれば軍事や役人とか外交官としてはいいが、「仁者であるかどうかは疑問」と言われてしまう。「仁」は孔子が大事にしていた概念であるが、それがないとダメだと孔子は言うのである。
私としては、人生は「考え方」だと思う。いい高校へ行き、いい大学へ行き、いい会社に就職するだけでなく、失敗しても立ち上がれること。窮地に陥ったその時、「どう考えられるか」ではないかと思う。算数が得意なら算数を利用して何かではないかと考え、それが国語なら国語、社会なら社会であるが、そうして自分ができる範囲内で何ができるかを考えてもがけるかどうか。せっかく入った大企業も辞めざるを得なくなるかもしれない。病気になるかもしれないし、人生どういう試練・不運があるかもしれない。その時、どうするかである。
孔子は仁者であるかどうかを大事にしていたようであるが、それが他にどんな特技があることよりも大事だと考えていたのだろう。仁者でありさえすれば、そのほかのことはなんであろうと問題がないと。その通りだと思う。「仁者」は孔子の大事にしていたものであるが、私は「たくましく生き抜ける考え方」を大事に考えたい。それがあれば、なんとかなると思うからである。
自分自身、働くことができる残り時間は短くなっているが、中小企業ゆえに会社自体が先行き不安である。もしもの時どうするか、はこの頃よく考えていることである。必死に考えてなんとなかするしかない。そしてそれは子供たちに対する手本でもあると思う。人生何があるかわからないし、たとえ失敗や不運に遭ってうまくいかなくなったとしても、そこからどう生き抜いていけるか。子供たちもいつかそんなことになるかもしれず、その時手本になれるのならそれはそれで親の役目としていいだろうと思う。
悠々自適とは程遠いが、そんな不安と戦いつつ、人生に必要な「考え方」をしっかり持ってやっていきたいと思うのである・・・
skeezeによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
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