2020年5月17日日曜日

論語雑感 里仁第四(その22)

論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。古者。言之不出。恥躬之不逮也。
〔 読み下し 〕
いわく、古者いにしえげんいださざるは、およばざるをずればなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「古人はかろがろしく物をいわなかったが、それは実行のともなわないのを恥じたからだ」
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 日本人はもともと伝統的に言葉に出すのを良しとしない文化があると思う。天皇をはじめとして高貴な人物の名前を呼ぶのを避けたり、「言霊」信仰があって「縁起でもないこと」を口に出すのを憚られたり。「不言実行」という言葉がある通り、「黙ってやる」ことが美徳とされたり。それに対して、ビジネスの世界では「有言実行」が良しとされることが多い。ビジネスは割と「大勢の人を巻き込んでやる」という意味合いが強く、従って「言葉にする」ことが大事だという面があると思う。

 「有言実行」は確かにカッコいいが、「できなかった」場合も当然あるわけで、できなかった場合には当然恥ずかしい思いをする。「不言実行」という言葉の裏には、「黙ってやる美徳」とともに、「できなかった場合の恥の回避」という意味もあるだろう。「できなかった場合の恥の回避」を消極的ととるか、それもまた美徳ととるかは難しいところかもしれない。「できもしないことを言う」のはホラ吹きも同様であり、それに対する非難もあると思う。

 5年前に転職した際、不動産業なだけに、宅地建物取引士の資格を取るように言われ、2年かけてこれを取った。その次に自ら必要性を感じて「マンション管理士」の資格も取った。こちらは3年かかった。どちらも「取る」と宣言して(宅建は業務命令だったが)取ったので、「有言実行」である。まぁ、取れたからよかったものの、やはり落ちた時はカッコ悪いなぁとバツの悪い思いをした。業務命令の宅建はともかくとして、マンション管理士は自発的にチャレンジしたものであり、宣言する必要性はなかったのは事実である。

 それでもあえて宣言したのは、部下にいろいろとチャレンジ目標を与えている立場上、自分もやっているということをPRする意味もあったが、自らにプレッシャーを与えるという意味もあった。なんとなく落ちたらカッコ悪いときにするよりも、黙って受けて合格して、「実はこっそり勉強していました」という方がカッコ悪い気がしたからである。実は同僚もどうやらこっそりマンション管理士の勉強をしていたようなのだが(本人は明言しない)、合格したとは聞かないから受験を諦めたようである。それもなんだかなぁと思うわけである。

 宣言した時は高揚感にあふれているから気分もいい。しかし、1回落ち、2回落ちると凹んでくる。合格率8%だし、50代で記憶力も減退しているし、と弱気の虫も盛んになってくる。宣言した手前、どうやってやめようかとやめ時を探すようになるし、「たった3回」で諦めるのかという批判も怖い。かと言って受かりそうもないのに勉強するのは苦痛であるし。3回目の受験前にはかなりのネガティブ思考に襲われたものである。受験を黙っていた同僚のスタンスは正解である(でもわかっちゃったりするのであるが・・・)

 考えてみれば、昔からそういうことは人に言う方だったなと我ながら思う。高校受験の時も志望校を聞かれれば隠さず答えていたし、大学受験の時も然り。友人の中には、教えてくれない者もいた。努力は人に見せたいとは思わなかったが、元からそういう目標的なものは隠さない性分だったと言えるのかもしれない。「夢は“口”に出して“十”回言えば“叶”う」という言葉があるが、宣言する効果というのは確かにあると思う。「有言」は「実現できれば」これに越したことはない。

 論語の言葉も「有言」を否定しているわけではない。むしろ有言実行を推奨していると解釈することもできる。「言うだけでやらない(やれない)」ことを戒めているわけであり、「言うならやれよ」ということであろう。「大言壮語」は実際が伴ってこそ凄いのであって、そうでなければただのホラ吹き。ホラ吹きになるなというのは当たり前といえば当たり前である。だが、その境界線は難しいと思う。

 その昔、ソフトバンクの孫さんは、創業期にたった2人の社員の前で段ボール箱に乗り、「将来は売り上げを豆腐のように一丁(一兆)、二丁(二兆)と数えるようになる」と宣言したそうである。当時は「大言壮語」と笑ったかもしれないが、それを実現した今は誰も笑う者などいない。「宣言」したから、否、宣言するような心意気だったから実現できたと言えるかもしれない。

 不言実行がいいか有言実行がいいかは、性格にもよるだろうし、無理をする必要はないと思うが、「恥ずかしいから黙っている」のが健全かと言うとそうではないように思う。ホラ吹きは論外であるが、「躬之不逮」を「恥」て黙するのではなく、「逮」ぶように努力する方が健全であると思うのである・・・



【今週の読書】





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