論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。
〔 読み下し 〕
子曰く、参や、吾が道は一以て之を貫く。曾子曰く、唯。子出ず。門人、問いて曰く、何の謂いぞや。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ。
【訳】
先師がいわれた。「参よ、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ」
曾先生がこたえられた。「さようでございます」
先師はそういって室を出て行かれた。すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。「今のはなんのことでしょう」
曾先生はこたえていわれた。「先生の道は忠恕の一語につきるのです」
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最近では「ブレる」という言葉を使うが、何か1つの行動指針にしたがって行動するのではなく、その都度その都度一貫していない行動を取るというのはよくあること。むしろ本人はその都度その都度「最適」と思う判断をしているつもりなのであろうが、それを1つの流れとしてみると一貫していないということである。政治の世界では「ブーメラン」という言葉が使われているが、旧民主党系の政治家などがかつて自分たちがやっていたことと同じことなのに今の政権批判をしているのはまさにそんないい例である(【「ブーメラン」恐れず攻勢 桜を見る会、民主党政権も開催】)。
首尾一貫していないというのは、人の上に立つに至っては誠に具合が悪い。1人だけのことならまだしも、「言っていることとやっていることが違う」というのは、人心を失うには最適の態度であろう。我が家の専制君主も「自分のことは棚に上げる」のが得意技である。ではなぜそんなことになるのかと言えば、それは「日頃から考えていない」からだと思う。深く考えずにその場その場でその時の都合に応じて本能的に判断しているからに他ならない。
「自分たちは何を求めて行動するのか」ということは、組織になれば人心を束ねるという意味でも大事である。経済合理性を優先するのか、それとも顧客満足を優先するのかはビジネスではなかなか難しい。「お客様第一」なんて掲げていながら、実態は「収益一番」というのはよくあること。経営者はそんな人心を束ねる術として「経営理念」を掲げたりするが、得てして下の方にいくとそれが薄れてしまうのもよくあること。「経営理念はなんですか」と尋ねられた時に果たして会社組織のどこまでの人が答えられるだろうか。
高校生の頃、三年生が引退して我々の新チームが発足した時、コーチから何を求めてやっていくかと我々みんなに尋ねられた。「勝つこと」を求めるのか「楽しさ」を求めるのか。勝つためにはハードな練習をしないといけないし、楽しさを求めるならそこまでする必要はない。コーチもどこまで指導するか、適度に楽しみたいと思っている高校生にハードな練習を課していいものか考えての問いだったのかもしれない。我々の出した答えは「勝ちたい」であった。結局、あまり勝てなかったが、それは結果論。ただ自分たちは「勝つためにラグビーをやった」という事実は残った。それはそれでいいと思う。
今の仕事でも、基本的にお客さんの満足を優先させようと、そういう理念を掲げている。だが、現場に浸透しているかというと心もとない。先日もお客さんから貸している部屋の設備についての不満表明があった。それに対し、現場の担当者から「契約では問題ない」という意見が出てきた。それはその通りの事実であり、こちらに落ち度はない。しかし、大事なのは落ち度があるかないかではない。なぜなら、「お客さんの満足」という点に関してはできていないからである。これを「問題なし」としてしまっては、「言っていることとやっていることが違う」ということになる。
会社やスポーツのチームのように、みんなが集まって1つの目標に向かうような場合、価値観が違う者たちが集まってくる中ではその拠り所をしっかりさせておく必要がある。会社で言えばそれは「経営理念」であろう。個人においても、「あの人ならどうする?」となった時に参考にされるのは、やはり日頃から考え方がはっきりしていて、「吾道一以貫之」という人であろう。そういう人こそ人にも信頼されるものだと思う。中にはそれが「金」という人もいるだろうが、やっぱり人に共感を呼ぶようなものだとより信頼性も高まるだろう。
Johannes PlenioによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
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