2019年9月12日木曜日

愛は惜しみなく与う

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい応鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
コリントの信徒への手紙13
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実家の母親と接していると、今さらながらではあるが、母親の「無償の愛」というものを感じる。我が息子に対する絶対的な愛情というべきものである。どんな状況にあっても息子を信頼し、そして支持するという姿勢である。たとえは悪いが、私が犯罪者になったとしたら、おそらく妻はすぐに離れて行くだろうが、母親だけは最後まで味方でいてくれると信じられる。それは我が妻の息子に対する愛情を見ていても思うところで、当然と言えば当然なのかもしれない。

そんな我が母親は、ならば聖女のような人間かと言えばそうではなく、他人に対しては不寛容である。たとえば、母は人に何かモノをあげた場合、必ずお礼を期待する。我が家の嫁姑戦争の発端の一つはそんなささいなやり取りであった。息子が来たから野菜などを家族で食べろと持たせて帰らせる。しかし、「嫁はそれに対してお礼の電話もよこさない」となる。妻は妻で息子がお礼を言っているので、「我が家としての礼は済み」と考える。その逆もまたあり、母の日や誕生日にプレゼントをしても、私は礼を言われるものの直接礼を言われない妻は、「自分には礼がない」と憤る。どっちもどっちである。

およそ人に何かを自主的に(して)あげようとするのであれば、見返りなどを求めるものではないと私は思う。しかし、母にこの理屈は通らない。「人にモノをもらったらお礼を言うのは当然だから」である。確かにその通りであるが、しかし一方で「お礼は要求するものではない」だろう。頼まれてやってあげたのならまだしも、自分が自発的に相手にしてあげたのであれば特にである。「相手の喜ぶ顔がみたい」、「喜んでもらいたい」と思ってやったのであれば、お礼などなくても問題ないはずである。

ところがそうではない。先日、従兄と話をしている時にも同じようなケースがあることを聞いたから、これは我が母に限らず、多くの人に当てはまることのような気がする。その裏には、「喜ぶ顔がみたい」と思ってやったのに、「喜んでくれなかった」という無念があるのかもしれない。お礼とはすなわち「喜び」だからである。「喜んで欲しかったのに喜んでくれなかった」というのは、ちょっと子供じみた不満かもしれないが、「お礼がない」と言って怒るのは違うだろう。それではまるで「押し売り」と変わらない。相手に(自分の)良かれと思うものを押し付け、お礼を強要するのは、「お礼」を「お金」と置き換えれば「押し売り」に他ならないだろう。

人に頼まれもしないのに相手のためを思って何かを(して)あげたりするのは、非常に良いことだと思う。しかし、それはあくまでも自分が進んでやったことであるから、当然「無償」でなければならない。「お礼」を期待するものではなく、受け取ってくれたことをもって満足すべきである。お礼を言ってもらえなくて嫌ならば、次回からしなければいいのである。勝手なことをして勝手に怒るというのは、考えてみれば酷い有様である。もらった方としてはいい迷惑であろう。

 「私がこんなに愛しているのに相手は全然私を愛してくれない」と憤るのは理屈が違う。勝手にものをあげて「お礼がない」と怒るのは、実は同じことである。お礼を言ってもらいたい気持ちはよくわかるが、「お礼を言ってくれない」と言って怒るのは筋が違う。相手のためを思って(して)あげたのであれば、それだけで満足するべきなのである。しかしたぶん母の場合、私がお礼を言わなかったとしても何も言わないだろうと思う。そこには「無償の愛」がやっぱり生きているのである。

 その昔、母がいろいろと何くれとなくしてくれようとするのであるが、若かりし頃の私はそれが煩わしくて仕方がなかった。それは態度でも言葉でも露骨に表していたが、母はそれ以後もせっせとものをくれている。それは誠にありがたい行為であり、だからこそ最近では何でもありがたがってもらうようにしているのである。それで母が嬉しいと思うのなら、それもまた親孝行だろうと思うようになれたということである。その気持ちを誰にでも向けたらいいと思うのだが、どうもそこにまでは至らないようである。

 恋愛も初期の頃は愛する相手のためには犠牲をいとわずであるが、時を経れば「いい加減にしろよ」となる。「愛とは見返りを求めない」ものであるはずなのに、そうした無償の愛は時を経て喪失してしまう。されど我が子に対する愛情だけは永遠なのだろう。それはそれでいいと思うのであるが、贈り物も「見返りを求めない」ものであるということをみんなしっかり理解すべきなのではないかと思うのである・・・





【本日の読書】
 
   
   
 

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