2019年8月22日木曜日

論語雑感 里仁第四(その3)


〔 原文 〕
子曰。惟仁者能好人。能惡人。
〔 読み下し 〕
()()わく、(ただ)仁者(じんしゃ)のみ()(ひと)(この)み、()(ひと)(にく)む。
【訳】
先師がいわれた。――
「ただ仁者のみが正しく人を愛し、正しく人を悪(にく)むことができる」
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 仁を備えた者のみが、「正しく」人を愛し、「正しく」人を憎むことができるという孔子の言葉。ここで言う「正しく」が一体どういう意味であるのかはよくわからない。そもそも何が「正しい」のかは難しいところ。人は誰でも自分自身の人生の主人公であり、その中では常に自分が正しいものだからである。本来の孔子が意図したところはわからないし、それは専門家の領域であるが、ここでは思うがままに雑感を述べてみたい。
 
 「正しい人の愛し方」は何となくわかる。では「正しくない愛し方」というのはどういうものであろうか。お金を対価とした愛情だろうか。何らかの打算に基づいた愛情だろうか。女性が結婚相手を選ぶ時、定職についていない愛するイケメンと一流企業に勤めている好きでもない男と比べ、打算で後者を選んだような場合であろうか。結婚は愛ではなく安定を求めてするものという考えの持ち主であれば、そういうケースもあるだろう。でもそれを「愛」と言えるかという問題もある。

すると愛とは何かという問題になる。個人的には「愛」とは無償のものであり、「条件」がつくものではないと思う。そう考えるのであるならば、打算に基づいた愛は愛ではなく、愛とは言えないものを「正しくない愛」と言うことはできないと思う。それと同様に、今度は「憎む」ということは、本来が「悪」であり(だから孔子も「悪」という言葉を使っている)、「正しくないもの」こそがその本質だと言える。つまりそういう意味では「正しく憎む」ということはできないはずである。

考えてみれば、「愛」の反対が「憎しみ」であり(マザー・テレサは「無感心」だと言ったらしいが)、それ自体が「正」と「悪」と同様対語である。「正」でない「正」がなく、「悪」でない「悪」がないように、「正しくない愛」も「正しい憎しみ」もないと思う。もっとも、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある通り(ちなみにこれも孔子の言葉らしい)、人に対しては常に愛を向け、憎しみを向けないということはあるだろう。

また、愛の形もいろいろである。たとえば、人は大勢の人を愛することができる。だからと言って、奥さんがいる男が、奥さんを愛しそれと同じくらい愛人を愛するというのは、ちょっと違う気もする。「できない」とは思わないし、十分可能ではあるが、それが「正しい」かと問われると、YESとは答えにくい。それこそが「正しくない愛」と言えるのかもしれないが、それはあくまでも一夫一婦制の世界での話であり、一夫多妻制の世界では「正しくない愛」ではない。

 また、「罪を憎んで人を憎まず」にしても、やっぱり罪を犯すのは人であり、情状酌量の余地はあると言っても限界がある。よく犯罪に対する弁護で、「悲惨な家庭環境から犯罪に走った」という説明がなされるが、悲惨な環境にあった者がすべて犯罪者になるわけではなく、そこは踏みとどまるところで踏みとどまれなかった事実があり、特に被害者からすれば憎しみは緩和されにくい。やっぱり「正しく憎む」というのは、観念的にはあるかもしれないが、現実的にはあり得ない気がする。

 本来、孔子がこの言葉でどんな事を言いたかったのか、大変興味深いところではあるが、なかなか2,500年を経ての訳語からそれを探るのは難しいのかもしれない。この頃、「正しく愛されたい」と強く思う身として、そんなことを考えたのである・・・



【本日の読書】
 
   
   

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