2019年5月28日火曜日

考えるとは

考えることの重要性は今さら言うまでもないであろう。それを否定する人はたぶんほとんどいないと思う。されどでは実際のところはどうかと思うに、実は考える事を放棄してしまっていることが結構あると思う。その1つの例は、医者やいわゆる「士業」の人と相対した時である。士業とは、弁護士や公認会計士などの高度な専門知識を有した国家資格を持つ人のことである。

 例えば具合が悪くて医者にかかったとする。すると何やら深刻な事態だと告げられる。やれ手術が必要だとかの大事になった場合、医者の診断に耳を傾ける。この時、大抵の人は「言われるがまま」になってしまう。それも無理からぬことで、なにせ相手は専門家である。素人の知識では到底対抗できない。それゆえに「言われるがまま」になる。それでも素人が対抗しようと思ったら、たとえば「セカンドオピニオン」を取るという方法がある。「考える」ということをすれば、である。

 医者の場合は、たとえば自分の命がかかっているから、多少真剣になって「考える」のだろうが、弁護士などにお世話になる法律問題になると「お任せ」になる確率も高くなるのではないだろうか。「法律の事はわからないから」「慣れた弁護士が最適だと判断して言うのだろうから」という感じで、「言われるがまま」になるのである。これは、「思考停止」の最たるものだと思う。もっとも、そんな事を言えば、「考えた結論だ」とでも言い訳が返ってくるかもしれない。ただ、「弁護士の言うことだから」と「盲信」している段階で思考停止しているのは明らかである。

 確かに法律問題になると素人にはわかりにくい。では「言われるがまま」も無理ないかと言えばそんなことはない。話を聞いて「考える」ことは十分に可能である。この場合、「考える」ことは、「疑問に思う」ことと同意義だと思う。疑問に思ったら、「そういうものか」と簡単に納得せず、どういうことかと説明を求める。素人にもわかりやすく説明してもらえば良い。それで納得できれば良し、できなければできるまで聞く。これに尽きる。

 こうして納得できれば良しだし、時にこうした会話の中から相手の弁護士も気付きを得て自らの法廷戦術を変更するかもしれない。弁護士とて神様ではない。間違えることもあるし、思い違いもある。「専門外だから」「素人だから」というのは言い訳にしか過ぎない。「疑問を持てば」それを追求することでいくらでも対等に渡り合える。「考える事は疑問を持つこと」と言いかえることもできるかもしれない。

 4年半前に銀行から不動産業界へと転職してきたが、転職当時はわからないことだらけ。業界慣習や会社で当たり前のようにやっていることが多々あった。それらについて、「疑問に思う」ことを片っ端から尋ねていったが、聞かれた方も実はよくわかっていないということも多かった。そういうものを追求していくと、なぜそのようにするのかがわかったり(原因がわかれば理解も早い)、あるいは改めて考え直してそのやり方を変えたりしたこともあった。自分も周りもいろいろと変化できたと思う。黙って「そういうものか」と思って受け入れるだけであったなら、まだ素人に毛の生えた程度の事務屋だったかもしれない。

 「考えて仕事をしているのか」と問えば、誰でも「考えています」と言うだろう。だが、そこで言う「考えている」は考えているうちに入らない。「相手の言うことは常に正しい」と「考えている」ことは、ただ盲信しているだけで実は何も考えていない。だからそういう場合、「疑問を持って(それを相手にぶつけて)いるか」と問うのがいいかもしれない。そういう問い方をすれば、「専門家の言うことだから間違いない」という思考停止状態にあることがわかるし、それを防げると思う。

 「疑問を持ってやっているだろうか」
それを常に意識するといいと思うのである・・・





【本日の読書】
 





2019年5月24日金曜日

蜘蛛の糸


うばい合えば足らぬ わけ合えば余る
相田みつを
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Apple Booksの紹介がきて、何気なく見てみたら、その昔読んだ芥川龍之介の『蜘蛛の糸』が目に止まった。短い話なのですぐに読めてしまうが、改めて読んでみると実に示唆に富んだ話だと思う。蓮の池を散歩していたお釈迦さまが、ふと見降ろしてみたところ地獄で苦しむ亡者たちの中からある男に目をつける。そして救ってあげようと蜘蛛の糸を地獄に垂らすのである。

お釈迦様が救おうと思った理由は、その男が生前一匹の蜘蛛を助けたというのであるが、それで強盗や殺人やさらに放火の罪で地獄行きとなった者が救われるのなら安いものに思えてしまうが、まぁそこはお釈迦様の気まぐれである。ともかく、男はその蜘蛛の糸にすがって登り始めるわけである。ところが途中でふと見降ろすと大勢の亡者たちが次々と後を追って登ってくる。そこで男は思わず「この蜘蛛の糸は自分のものだから下りろ!」と叫んでしまう。その途端、糸はプツンと切れてしまう。

もちろん、糸が切れたのは重みではない。せっかくお釈迦さまが救いの手を伸べてくれたのに、男は自分だけが助かる事しか考えず、糸が切れることを心配して叫んだのである。しかし、そういう自分勝手な考えこそ戒めるべきで、だから糸は切れてしまったのである。話はそこで終わっているが、再び血の池に落ちた男が絶望の中でどう思ったのかはちょっと気になるところである。そんな男のことだから、糸が切れたのはその重みに耐えられなかったからだと後から登ってきた者たちを恨みがましく思ったかもしれない。

もしもその時、男が気にせず登り続けたら、あるいは後続の者を助けようとしていたら、糸は切れなかったであろう。後に続く者がみんな救われたかどうかはわからないが、あるいは男が「ゴール」した瞬間に糸が切れていたかもしれない。罪状からすれば強盗殺人放火の罪にあたる男であるから、結末としては自業自得であり当然である。功罪を比較すればそもそも救いの対象となるべきではないと思うが、これを読めば誰でも「バカだなぁ」と思うだろう。だが、その「教訓」を果たして我々は生かしているだろうか。

「自分さえよければ」という考えは、すぐに脳裏に浮かんでくる。満員電車でもう乗り込めないように入口で頑張っているおじさんの姿はよく目する。スーパーで「おひとり様2点まで」などとあると、並び直して何個も買う奥さま(あるいは命じられた旦那さん)。震災時に首都圏のコンビニやスーパーで買占めがあったことはまだ記憶に新しい。もっとも震災時に被災地では譲り合いが見られ、海外から賞賛を浴びていたから、もしかしたら本当の非常時には助け合いの精神が働くのかもしれない。ただ、日常生活においては目につくのは糸を切られそうな例ばかりである。

みんな子供の頃に読んだ童話では、正直爺さんになろうと思ったはずである。しかし、現実には金の斧を自分のものだと言い、大きなつづらを持って帰ろうとする。ビジネスで言えば「三方良し」の精神に欠けるのである。そういう自分はどうかと言えば、もしかしたら無意識にやっているところはあるかもしれない。スーパーで2回並べと言われることはたまにあるが、抗しきれないのは事実である。

まぁ、日常のささやかな例程度であれば目くじらを立てるほどでもあるまいと思うが、50も半ばを迎えるとなると、そろそろ「正直爺さん」になる準備をし始めてもいいのかなと思うのである・・・



【本日の読書】