2019年3月24日日曜日

論語雑感 八佾第三(その21)

〔 原文 〕
哀公問社於宰我。宰我對曰。夏后氏以松。殷人以栢。周人以栗。曰使民戰栗。子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。
〔 読み下し 〕

哀公(あいこう)
(しゃ)(さい)()()う。(さい)()(こた)えて()わく、夏后氏(かこうし)(まつ)(もっ)てし、殷人(いんひと)(はく)(もっ)てし、周人(しゅうひと)(くり)(もっ)てす。()わく、(たみ)をして戦栗(せんりつ)せしむと。()(これ)()きて()わく、成事(せいじ)()かず、遂事(すいじ)(いさ)めず、既往(きおう)(とが)めず。

【訳】
哀公が宰我に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。――
「夏の時代には松を植えました。殷の時代には柏を植えました。周の時代になってからは、栗(りつ)を植えることになりましたが、それは人民を戦慄(せんりつ)させるという意味でございます」
先師はこのことをきかれて、いわれた。――
「できてしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、いさめても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない」
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 論語には意味のわからない言葉が時々出て来る。今回のこの言葉もその1つ。社に植える神木の歴史について話しているようでいてそうではなく、かといって親父ギャグのようなダジャレが言いたいわけではないだろう。なんとなく社の神木に政治的な意図を含めることを諌めたかのようにも思えるし、その解釈はどういうものなのか難しい。ただ、ここでは解釈を論じるつもりはなく、ここから感じたままを綴るだけである。

日本でも縁起を担いだりすることは昔からよくあることで、アパートや病院には「4号室」がないし、お賽銭に「ご縁」があるようにと5円を使ったり(その昔の銀行員は5円で作った通帳を持って口座開設の営業に回ったらしい)するが、中国もそうなのかもしれない。おそらくは「社」というのは、支配者の宮殿なのかもしれないが、ここに支配権を確立できるようにその意味を込めた神木を植えたということなのかもしれない。

そのように考えたのであれば、「市民が戦慄するように」という意図を持って栗(りつ)を植えたというのは、支配者からすれば当然の思いなのかもしれない。ただ一方で支配される者からすれば、それはまさに「シャレにもならない」と言えるであろう。ここでは「これからはこんなことを繰り返さぬように」という風に諭しているのが言葉の意味なのかもしれない。

ある願いを込めて何かをするというのはよくあることであり、身近に真っ先に思い浮かぶのは「名付け」である。生まれてきた我が子や希望を持って設立した会社や、我が家にやってきたペットなど、名付けの時にはみんなそれぞれ意味を込めたりする(まぁ我が両親のように猫にクロとかチャーとか見れば一発で理由がわかるものもあったりするかもしれない)。我が家でも我が子につける名前はあれこれ悩んだものである。

感覚的には、そういう「意味を込める」場合も「良い意味」がほとんどのような気もする。「人々を戦慄させる」ではあまりにも酷いものである。それを聞いた人がその人に抱く気持ちは好意よりも悪意になってしまう。どうせなら「平和の旋律を奏でる」という意味で「リツ」にすれば良いと思う(漢字が違うと言われればそれまでだが、まだマシだろうという程度である)。それならまだ市民の尊敬を得られるかもしれない。

とは言え、聞こえが良ければ良いかというと、これはこれでそうでもなかったりする。その最たるものが政党名である。「希望の党」、「日本未来の党(その後生活の党)」、「幸福実現党」等(明らかに如何なものかと思われるものは別として)、まぁ耳障りの良い政党名のものは多い。それはそれで良いと思うが、中身が伴ってこそなのは言うまでもないことである。

 意味を込めることは大事であるが、もっと大事なのは込めた意味に見合う実践と言える。かと言って「戦慄」は困るが、良い意味であれば良い実践である。
 思いを込めて名付けた我が子もそのように育って欲しいと思うのである・・・






【今週の読書】
 
 
 

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