2019年3月10日日曜日

論語雑感 八佾第三(その20)

〔 原文 〕
子曰。關雎樂而不淫。哀而不傷。
〔 読み下し 〕
()()わく、関雎(かんしょ)(たの)しみて(いん)せず、(かな)しみて(やぶ)らず。
【訳】
先師がいわれた。――
「関雎(かんしょ)の詩は歓楽を歌っているが、歓楽におぼれてはいない。悲哀を歌っているが、悲哀にやぶれてはいない」
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言葉としては難しいが、「淫」とは「溺れない」という意味のようで、「傷」とは「うちひしがれない」という意味のようであるらしい。ここで論語を採り上げているのは、その言葉の解釈をするのではなく(そんな学もないし、それは専門家に任せたい)、その言葉から連想することを徒然なるままに書き連ねているわけであるが、今回連想したのは「節度」である。

以前、銀行員時代、競馬の好きな部下がいた。まだ当時20代の男であったが、結構競馬場に通っていたようである(私は興味がなかったのであまりその話は聞いていなかった)。職業的にいいイメージは持たれないかもしれないが、彼の銀行員らしいところは、勝負につぎ込むお金は「月10,000円」と決めていたことである。ギャンブルと言えば、のめり込んで借金までして自滅する人がいるが、さすがに銀行員らしい「節度」であった。

カジノ誘致の議論では、「ギャンブル依存症を作り出す」というような意見を言う人がいるが、みんながみんな彼のような節度を保っていたならそんな心配は無用だし、そうなったら公営ギャンブルは成り立たなくなるかもしれないとすら思う。ギャンブルには人を熱くさせるものがあり、それはよくわかる。問題はそこに金が絡むことであり、それは本来、なくなればそれまでのところだが、借金という形(あるいは手をつけてはいけないお金)で継続できることであろう。

私もかつて株をやっていたが(今も持っているだけは持っている)、やっぱり読みが当たって値上がりして利益を手にするのは何とも言えない快感である。そして勝てば自分が凄い存在になった気がして勝負に投入する金額が大きくなる。勝てば良いが、負ければ悔しくて今度はそれを取り返そうとする。そうして気がつけば深みにはまっている。

勝てると思うから資金が尽きれば借りようとする。返済は考えないかというとそんなことはなく、きちんと返そうと(返せると)考えている。何も問題はない。次の勝負に勝てばいいのだから。お金がなくなったらそこでやめれば良いのだが、今の時代は簡単に借りられる。私はそこまで落ちなかったが、気がつけば会社のお金をつぎ込んでしまい、会社が傾いてしまった社長さんもいた。

ギャンブルに限らず、酒や女で身を持ち崩す人の話は枚挙に暇がない。みんな一定の「節度」を保てば問題ないものばかりだと思うが、人が人たる所以なのか、人はしばしば節度を保つことはできず、超えてはならない一線をオーバーしてしまう。でも踏みとどまれる人はいるわけで、そうした「節度」は一体どうしたら身につくのだろうかと思わざるを得ない。「節度」を守れる人と守れない人の違いはなんなのであろう。

それは言ってしまえば「意思の力」に他ならないが、「想像力(想定力)」もあると思う。「この道を行かばどうなるのか」がきちんと想定できれば、ヤバいと思って立ち止まれるだろうと思う。それを「行けばわかるさ」ではまずいだろう。最悪のケースに陥った時にきちんとそれを回避できるのか。それができる確証があるのか。そういう事態をきちんと想定できれば、意思を持って自制できるような気がする。

資格試験の勉強をしていても、ついつい気がつけばネットサーフィンしてしまったりしている自分としてはあまり偉そうなことは言えない。快楽に溺れたいのは人間の本能みたいなものだと思うし、難しいところである。孔子に向かって誇れるとしたら、せめて楽観主義的な性格が物事を悲観的に見ることのない点で、「哀しみて傷らず」はできているところかもしれない。

 節度の境界線をチラ見しながら、できるところまで人生を楽しみたいと思う自分なのである・・・





【今週の読書】
 
   
   

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