2019年2月20日水曜日

論語雑感 八佾第三(その19)


〔 原文 〕
定公問。君使臣。臣事君。如之何。孔子對曰。君使臣以禮。臣事君以忠。
〔 読み下し 〕
()う、(きみ)(しん)使(つか)い、(しん)(きみ)(つか)うるには、(これ)如何(いかん)せん。(こう)()(こた)えて()わく、(きみ)(しん)使(つか)うに(れい)(もっ)てし、(しん)(きみ)(つか)うるに(ちゅう)(もっ)てす。
【訳】
定公がたずねられた。
「君主が臣下を使う道、臣下が君主に仕える道についてききたいものだ」
先師がこたえられた。
「君主が臣下を使う道は礼の一語につきます。臣下が君主に仕える道は忠の一語につきます」
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ここでは主従関係にある者について、使う者と仕える者とのあり方について述べている。時代背景もあるから仕方がないことであるが、現在の国民主権、民主主義の世の中ではもはや封建的な意味での主従関係は存在しない。現代で似たような例をあげるとすれば、「雇用関係」であろうか。あるいはスポーツチームの監督(ヘッドコーチ)と選手との関係なんかがこれにあたるかもしれない。

個人的に興味深いと思ったのは、「君主が臣下を使う道は礼の一語につきる」というところである。「臣下が君主に仕える道は忠の一語」というのは比較的理解しやすい。我が国でも「いざ鎌倉」の精神から忠臣蔵まで、すべてを捧げて君主に尽くす姿が美徳とされてきた歴史がある。犬でさえも「忠犬ハチ公」が銅像になるくらいである。それは支配階級からしたら誠に都合の良い精神である。それだけに止まらず、君主が臣下を使う際の心得まで説いたところが興味深いと感じたところである。

質問をした定公とは、おそらく君主だろう。たぶん、「家臣の使い方」という意味で聞いたのかもしれない。あるいは、もっと大きな意味で「偉大な君主とされるためには」という観点から尋ねたのかもしれない。それに対し、君主も「礼」をもって接するべしと説いたものである。まぁ、君主だから生殺与奪の権利があるというわけではなく、ある程度の「使い方」があるというのは理解できるところである。

その君主のあるべき態度として必要なのは「礼」であるとしている。「礼」とはよくわからないが、思いやりのようなもののようであるから、要するに「愛情を持って接すべし」という事ではないかと思う。現代的な感覚から言えば当然だと思うが、当時の感覚からしてもそうであったのだろうかと、ふと思う。それはともかくとして、当時の専制君主であってさえも「礼をもって接すべし」と言うのであれば、現代においては尚更であろう。

雇用関係においては、最近「セクハラ」や「パワハラ」の概念が確立され、また一連の働き方改革で(臣下にあたる)労働者が守られるようになってきている。しかし、それ以前に雇用主(または上司)が、「礼」をもって(臣下たる)従業員(または部下)に接していれば、昨今騒がれているような過労死などの問題もなかったのではないかと思われる。そういう意味では、孔子の言葉は現代においても真理である。

一方の忠であるが、現代では「滅私奉公」も死語となりつつあり、雇用関係でそれを求めるのは時代錯誤的である。ひと昔前の「忠臣」たる「会社人間」も今では流行らない。しかし、それでも敢えて「忠」の精神は必要だろうと思う。「忠」と言っても、それは「人」に対するものではなく、言ってみれば「仕事」それ自体に対するものである。「プロフェッショナル意識」と言ってもいいと思うが、そうした「忠心」は今でも必要だろうと思う。

「自分はプロフェッショナルか」と問われれば、大概の人はそうだと答えると思うが、その実態はと言えば、
「言われればやる(言われなければやらない)」意識
「それは自分の仕事ではない」意識
「昨日と同じ今日を過ごして安心」意識
が至る所で目につく。

 現代のサラリーマン社会においても、「礼」も「忠」も共に上記の意味では重要である。いささか拡大解釈的ではあるが、そんなことをふと考えさせられた言葉なのである・・・



【本日の読書】
 





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