2019年2月4日月曜日

論語雑感 八佾第三(その18)

〔 原文 〕
子曰。事君盡禮。人以爲諂也。
〔 読み下し 〕
()()わく、(きみ)(つか)うるに(れい)()くせば、(ひと)(もっ)(へつら)いと()すなり。
【訳】
「君主に仕えて礼をつくすのは当然だ。然しかるに世間ではそれをへつらいだという」
************************************************************************************

 これはなかなか難しいことだと直感的に思う。なぜなら君主に仕える家臣としては、君主の指示に的確に応えるのがその役割であるが、時に傍から見ればそれは好ましくない姿に映るからである。「ゴマスリ」、「太鼓持ち」等々という陰口がある所以である。現代でもすぐに思い当たるのはサラリーマンだろう。上司に媚びへつらう者はよくいるし、「イエスマン」という言葉は必ずしも誉め言葉ではない。

 しかしながら、現代の企業でも経営者の指導の下、一丸となって目標達成に邁進するのは本来のあるべき姿であるし、経営者の意図を確実に実現していくのが部下たる者の務めである。ならば当然「イエスマン」でなければならないわけで、それを批判するのは「お門違い」なわけである。では批判するのがおかしいのかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。中には「媚びへつらい」だけと思われる人物だっているからである。

 ではその違いはなんなのだろうかと考えてみると、それは仕える人の「確たる信念」とでも言うべきものであるのではないかと思う。自分というものがしっかりとあって、それで仕えている人は、ただ上司の顔色だけ窺っている者とは明らかに違う。時に積極的に意見具申し、反対意見でもきちんと言える。そういうところがなくて、ただ言われるがままだと「腰巾着」と言われても反論はできないだろう。

 かつて内閣官房長官を務めた後藤田正晴は、後藤田五訓を残した。その中にあるのは、「勇気を以って意見具申せよ」、「決定が下ったら従い、命令は実行せよ」であるが、まさにこの態度であろう。たとえボスであろうと、間違っていると思ったのならそれを率直に言うべきだし、それでも尚且つ最終的にボスの命令が下ったのならそれを実行しなければならない。心の中で違うと思っていても、それを表に出すことなく面従腹背する態度こそが「媚びへつらい」と批判されるべきである。

 ただ、そうした面従腹背も、わからなくもない。なぜなら、積極的に意見具申すると言っても自分の意見(に自信)があってこそのところはある。自信がなければ黙って従うに越したことはない。面従腹背の人物像となると、現実的にはスネ夫みたいなずるい人物というよりも、自分に自信のない人が大半な様な気がする。そういう人物が、下手に中間管理職になったりするとこのパターンになることが多いのではと思う。かつて銀行員時代に仕えた上司にもこういう人が多かったものである。

 では、後藤田五訓を地で行くような「正統派イエスマン」になるにはどうしたら良いのだろうか。それは絶えざる訓練だと思う。何をやるにしても常に「これでいいのか、どうするべきか」を考え、そして意見を発信する。たとえ反論にあっても前向きに冷静に捉え、臆せず続ける。それを繰り返すしかない。そうするうちに、自分の意見を言うのが普通になってくる。そういう「正統派イエスマン」なら、たとえ陰口を叩かれたとしても、それはもはや「妬み」でしかない。

 孔子の時代も例えば官僚組織などは、やはり今のサラリーマン社会のような組織だったのだろうか。そしてやっぱり君子の覚えめでたい者はやっかみを込めて「ゴマスリ野郎」のような陰口を叩かれていたのだろうか。そうだとしたら、人間社会は時を経ても場所を経てもあまり変わらないものだと言うことができる。実際はどうなのであろうか。ただ、たとえそうだとしても、自分はやっぱり確たる信念を持って、「正統派イエスマン」でありたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 
   
   
    

0 件のコメント:

コメントを投稿