子張問。十世可知也。子曰。殷因於夏禮。所損益可知也。周因於殷禮。所損益可知也。其或繼周者。雖百世可知也。
子張問う、十世知る可きや。子曰わく、殷は夏の礼に因る。損益する所知る可きなり。周は殷の礼に因る。損益する所知る可きなり。其れ或いは周に継ぐ者は、百世と雖も知る可きなり。
【訳】
子張がたずねた。――
「十代も後のことが果してわかるものでございましょうか」
先師がこたえられた。――
「わかるとも。殷の時代は夏の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところもあるが、根本は変っていない。周の時代は殷の時代の礼制を踏襲して、いくらか改変したところがあるが、やはり根本は変っていない。今後周についで新しい時代がくるかも知れないが、礼の根本は変らないだろう。真理というものは、このように過現未を通ずるものだ。従って十代はおろか百代の後も予見できるのだ」
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この会話において、孔子の意図したところはよくわからない。「真理は変わらない」と言われれば、その通りかなとも思うし「制度」のことであれば、十代どころか一代で終わってしまうものもあるだろう。質問の趣旨からすると、十代もあとのことは(少なくとも変化の激しい現代においては)分かるはずがないとも思う。なにせ自分の子供の頃と比べたって、今はだいぶ違う。とてもではないが、十代あとの世の中の様子なんてわからないと思う。
そもそもであるが、私は「世の中は変化するもの」と考えている。孔子の時代であってもそうだったはずで、違うとしたらそのスピードだったかもしれない。『サピエンス全史』によると、人類は250万年前にホモ属として進化し、ネアンデルタール人が進化したのは200万年前、そして我々ホモ・サピエンスが進化したのは7万年前だそうである。現代とは桁違いの時間がかかって変化している。そしてそれから加速度的にスピードアップしている。
自分の若い頃と比べてもそうだ。大学の入学祝いに親戚から分厚い広辞苑をもらったが、今はもう使うこともない。国語辞典、英語辞典、和英辞典、英英辞典、古語辞典と随分学生時代にはお世話になったが、子供達は電子辞書1つで済んでいる。社会人となった自分も、何かあればグーグル先生に直接話しかければ教えてくれる、ページをめくる時間もかからないので、かつてお世話になった辞典類はもう本棚の飾りでしかない。孔子も今の時代に生まれていたら、ひょっとしたらこの会話はなかったかもしれない。
最近読んだ小池真理子の小説『望みは何と訊かれたら』には、1970年代の学生の生活が描かれている。地方から上京してきた学生が住むアパートは、木造二階建て、風呂はなくトイレと洗面は共同だ。私の最も古い記憶の中で住んでいたアパートもおんなじようなものだった。今の学生は、家賃の安いアパートだといわゆる三点セットと呼ばれるバス・トイレ・洗面がセットになったユニットになるが、それでも各部屋内に独立してついている。その三点セットももはや不人気で、バス・トイレ別が好まれる傾向にあり、いずれ廃れるだろうと思う。
それは世の中の進化であり、好ましいものだと思う。自分の子供が大人になった世界は想像できるが、孫やひ孫の時代はSFといい勝負な気がする。十代先のことなどわかりようがない。表面的な生活ぶりはともかく、価値観はどうだろうかと思う。ただ、これも変化の波は容赦ない気がする。例えば、「夜中に爪を切らない」ということも、私などは「親の死に目に会えなくなる」と言われて禁じられてきたが、妻は「風呂上がりは血行がよくなって切りやすくなる」と言って夜しか切っていない。母親の影響を受ける我が家の子供達も然りである。
ただ、それもまた表面的なものとも言え、大事な考え方は教え諭してあげられるかもしれないとは思う。ここで、論語の言葉を定期的に採り上げて自分の意見をまとめているのも、今なお真理として通ずるものが多いからに他ならない。だとすれば、それはしっかり語り継がないといけないのかもしれない。最近、食事の時に子供たちと意識的に話すようにしているが、それはテレビ番組を題材に知識的なことが多い。もっと深く突っ込んだ根本的な真理についても話をした方がいいのかもしれない気がする。
十代あとの世の中がどうなっているのかは、まぁどうでもいいような気がする。所詮SFの世界である。価値観の伝承もどうでもいいと思う。極論を言えば、真理だってそうである。ただ、自分の血を分けた子供達には、「親父はこんなことを考えていた」と知ってもらいたいとは思う。このブログもそんな意味で綴っていきたいと思うのである・・・
【今週の読書】
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