季康子問。使民敬忠以勸。如之何。子曰。臨之以莊則敬。孝慈則忠。舉善而教不能則勸。
季康子問う。民をして敬忠にして、以て勧ましむるには、之を如何せん。子曰わく、之に臨むに荘を以てすれば則ち敬、孝慈なれば則ち忠、善を挙げて不能を教うれば勧む。
【訳】
大夫の季康子がたずねた。人民をしてその支配者に対して敬意と忠誠の念を抱かせ、すすんで善を行なわしめるようにするためには、どうしたらいいでしょうか。先師はこたえられた。支配者の態度が荘重端正であれば人民は敬意を払います。支配者が親に孝行であり、すべての人に対して慈愛の心があれば、人民は忠誠になります。有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育すれば、人民はおのずから善に励みます
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今回の言葉は、政治面での国家の指導者についての言葉であるが、ある程度の組織になればどこにでも当てはまるリーダー論でもあると思う。それはスポーツのチームであっても、会社であっても同じなのではないかという気がする。これについて、仕事面でこの言葉の意味を考えてみたいと思う。
「態度が荘重端正」とは、言葉や言動が正しく筋が通っているというような意味なのだと思うが、まずもってこういう要素がないと下の者の敬意は得られないであろう。
昔の上司にいつも不機嫌な表情をしている方がいた。時折聞く経歴や過去の苦労話などからは尊敬できる要素の高い方であったが、どうにも疑問に思う点が2つあった。それは朝挨拶を返してくれないことと、議論の途中で黙り込んでしまうことであった。もともといつも不機嫌な表情をしている方であったが、朝挨拶をしてもそのままスルーであった。それは私に対してだけではなく、みんなに対してであった。
挨拶は、言うまでもなく人間関係の基本である。1日のスタートは挨拶で始まる。それがスルーされてしまうと、「こちらが何か悪いことをしたのかな」と思ってしまうし、話しかけるのが憚られるし、あれこれと余計なことを考えなければならなくなる。挨拶ぐらい素直に返してくれたら、こちらもスムーズに1日の仕事に入っていける。たったそれだけのことなのに、その方は何を考えていたのか今でもわからない。
そして仕事を巡って議論になると黙ってしまう。議論といっても激しいものではなく、言われたことに対して、それでいいのかなと思った疑問をぶつけてみたようなケースである。そうした意見や疑問がもしかしたら気に食わなかったのかもしれない。「黙って言われた通りにやれ」と言うことだったのかもしれない。こちらの意見に対する回答が「沈黙」ではやりきれなかった。
人間である以上間違いはある。その方の指示通りにやって(疑問の残る指示であったから、こちらからは意見を申し上げたが当然スルー)、懸念した通りトラブルとなったことがあった。そういう時、部下の立場からするとミスした上司に対する思いは普段の言動次第である。その時「それ見たことか」と思ったのは当然である。これが意見を聞いてもらった上で、改めて「俺の言う通りにしてくれ」とでも言われていたら、反感はまったく抱かなかっただろう。
続いて次の要素である「親に孝行」と言うのはいかにも儒教らしいが、上司や社長がそうであれば「心象」はいいだろう。「この人はいい人だ」という思いを根底にいだければ、その後の関係にも影響すると思う。さらに部下や社員に対し慈愛の心があれば、たとえ怒られても素直に指導が聞けるだろうし、次はミスしないように頑張ろうと前向きな気持ちを維持できる。この「怒られても素直に聞ける」という部分は、人格以外の何物でもない。
「有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育す」るとは、「有能な人をきちんと評価し、能力の劣る人は丁寧に教えて仕事ができるようにすれば」と解釈したが、そうすればみんなモチベーションを維持して頑張るだろうと思う。基本的に日本人は皆真面目だし、「こういう風に仕事をしてほしい」と説明すれば、大概のことは理解して実行してくれるだろう。そしてその結果をきちんと評価してあげれば、誰でもいい仕事をしてくれると思う。私の信念であるが、「(部下を)使えない上司」はいるが、「使えない部下」はいないのである。
論語は、長い年月を経ても変わらない真理を言い表している言葉が多くあるが、この言葉も「国の支配者」だけでなく、「組織のリーダー」についても大いに当てはまる言葉であると思うのである・・・
【今週の読書】
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