アメリカ・ラスベガスでまた銃の乱射事件があって、何と今現在で死者59人だという。昨年、やはり銃の乱射事件があり、その時死者50人で「アメリカ犯罪史上最悪の銃乱射事件」と報じられていたが、その「記録」が1年も経たないうちに破られてしまったわけである。記録は破られるためにあるとは言われるものの、これはいかがなものかと思わざるを得ない。我が国でも最近、暴力団による射殺事件があったが、スケールがまるで違う。これはやはり「銃社会」のなせる業なのかと思ってみたりする。
こうした事件が起こるたびに、「銃規制」の声が聞こえてくるが、一向に進む気配がない。我々日本人の感覚からすると不思議でしかたないが、なぜ銃規制(さらに言えば廃止)ができないのだろうか。もともと、西部開拓史において広大な西部では警察による治安維持が困難で、自警するしかなかったという歴史的背景もあるのだろう。その点、我が国とは国民の武装という点で大きく異なる。
我が国もかつては農民がみな武装していて、それが「いざ鎌倉」となったら武器を手にして武士として戦に行ったらしい。それが戦国時代が終了し、豊臣秀吉が刀狩りを行って武器を持てるのが武士だけになり、さらに明治に入って廃刀令で武器を持てるのが軍と警察だけになったという経緯がある。今から思えばこういう歴史が銃のない社会になっているわけで、ありがたいと言えばありがたい。
ではなぜ今からでも銃を廃止できないのかと言うと、それは全米最強のロビー集団と言われる全米ライフル協会の存在もあるらしいが、専門家によると根底には「周りが銃を持っている中で自分だけ手放せない」という不信感があるという。「いっせーの、せっ!」で廃止すればいいような気もするが、アメリカのように膨大な数が出回っていると、なかなか簡単にはいかないだろう。
お互いの信頼感があればまだしも、アメリカのような多民族国家でお互いに信頼しあおうというのも難しいかもしれない。我が身に当てはめてみても、隣に韓国人や中国人の家があったらはっきり言って信用はできない。確たる確信がなければ銃を手放す気にはなれないだろう。疑心暗鬼の世界で理想論は空しい。
そういう相互不信は、核廃絶が進まない理由でもある。オバマ大統領がノーベル平和賞をもらっても核廃絶に踏み切れないのは、「自分だけ廃止して相手が廃止しなかったら」という恐怖感だろう。おそらくどこも相手が廃止してそれを確認できたら自分も廃止するとしたいだろうし、隠し持っていたらという不信感が拭えなければ無理だろう。ただ、核兵器の場合は「使ったら終わり」という認識があるから、「抑止力」としての効果がある。それがあるから第二次大戦以降、大国間同士の戦争が起こっていないわけである。ただ、銃にはあまり抑止力は期待できない。
結局のところ、こういう事件が起こるたびに「銃規制」の声が上がり、そして萎んでいくということを繰り返していくのだろう。銃器メーカーによれば、「人を殺すのは人であって銃ではない」らしいが、わずか数分の間に大量殺傷できるのはやはり銃でしかない。禁止が難しいのならせめて重火器だけでも規制すればいいのにとは思う。自動小銃が普通にある社会というのも考えてみれば恐ろしい。
かつて観た映画『ヒート』では、街中でM14ライフルを乱射するシーンが出てきて、それは映画ながらものすごい迫力であった。それは映画だから楽しめるが、実際に出くわしたらたまったものではない。事件の現場となったマンダレイベイ・ホテルは、かつて我が家でも遊びに行って宿泊したことのあるホテル「ルクソール」の反対側にある。よその国の出来事だと言って安心してはいられない。つくづく、規制の方向に向かってほしいものだと思わなくもない。
【本日の読書】
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