先日の事、家族との会話で娘が中学生の頃、テストで先生に成績順を教えてもらっていたことを聞いた。当時、娘が学校の定期試験で、学年で○位だという話は聞いていたが、それが「こっそり」聞いていたということは知らなかった。なんでも一般的には伏せられていたそうで、娘は担任の先生に個別に頼んで教えてもらっていたそうである。
その順位が実は毎回娘のテスト勉強に対するモチベーションになっていたという。自分の順位が上がれば嬉しいし、いい順位をキープできればそれも良し。親にも褒められるし、自分も気分が良いしということだったようである。そう言えば、それは自分も高校時代に同じ経験をしているのでよくわかる。ただ、その時は全員に発表されていたので、娘のようにこっそり聞くという努力は不要であったが・・・
考えてみれば自分の場合、勉強は嫌いではなかったが、それでも「好き嫌い」はあった。歴史や英語、倫理社会とか数学の一部などはわりと好きな科目であったが、物理や化学はできるなら避けて通りたい科目であった。好きなものはいいが、嫌いなものは勉強などしたくない。そんな気持ちを抑え、万遍なく勉強しようという意欲が出た要因が、「学年順位」であった。順位を上げたくて、上がるのが楽しみですべての教科を嫌がらずに勉強していたものである。
自分の力を上げるのに、「競争」が役に立つのは間違いのないところ。個人ならずとも企業や国すらも、競争のないところに進歩がないのは明らかであり、だからこそ「理想社会」であったはずの社会主義が失敗したのであろう。日本でも国鉄を始めとする国有企業の失敗を見ても明らかであり、年功序列が崩れたのも同様であろう。昨日と同じことを今日も明日も続けて問題がないという環境は、それ自体が問題なのだろう。
昔はテスト結果が張り出されて各人の順位が一目瞭然なのが当たり前だったと思うのだが、それがいつから否定されるようになったのかと思う。一時期幼稚園の運動会で手をつないでゴールなんてのがあったらしいが、やはり「競争」は個人でも世の中でも必要だろう。もちろん、競争の当事者になるのは大変なことだし、できれば競争などしたくないというのがみんなの本音だと思う。
競争は良いと思うのだが、やる気を削ぐのは「不公平」だろう。公平に競争して負けたのなら仕方がないが、例えば出世競争などは必ずしも公平とは言い難いものだと思う。もっともそれは敗者の感情であることは間違いない(逆に勝者は公平=「自分の実力」だと思いたいものである)。競争の効果を認め、それを導入しようとしたら、この「公平な評価システム」が不可欠で、それがないと逆にモチベーションを下げてしまうことになるだろう。
一方で、我々日本人のDNAとして、あからさまな競争は避けたいというものがあるのも確かだと思う。人を押しのけるということに抵抗を持つ人は少なくないと思うし、過剰な自己PRも然り。「謙譲」が美徳とされる我が国では、自分を必要以上によく見せることに抵抗感を持つのは私だけではないと思う。成績順などは、あまり人を押しのける感覚がないから、そこが心地良いのかもしれない。
進歩は必要だが、あまり人とは争いたくない。試験のような公平で努力の成果がわかりやすいものは素直に頑張れるが、出世競争のように評価基準が曖昧で、「押し退け感」を感じさせられるものは苦手なのは、私だけではないと思う。自らの進歩に必要で役に立ち、それでいて人を押し退ける必要がない。そんな競争なら大歓迎かもしれない。昨日より今日、今日より明日と少しずつ進歩していく・・・
「ライバルは昨日の自分」
今はそれを合言葉にしているのである・・・
【本日の読書】
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