孟懿子問孝。子曰。無違。樊遲御。子告之曰。孟孫問孝於我。我對曰無違。樊遲曰。何謂也。子曰。生事之以禮。死葬之以禮。祭之以禮。
孟懿子、孝を問う。子曰く、違うこと無かれ、と。樊遅御たり。子之に告げて曰く、孟孫、孝を我に問う。我対えて曰く、違うこと無かれ、と。樊遲曰く、何の謂ぞや、と。子曰く、生きては之に事うるに礼を以てし、死しては之を葬むるに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす。
【訳】
大夫の孟懿子が孝の道を先師にたずねた。すると先師はこたえられた。はずれないようになさるがよろしいかと存じます。そのあと、樊遅が先師の車の御者をつとめていた時、先師が彼にいわれた。孟孫が孝の道を私にたずねたので、私はただ、はずれないようになさるがいい、とこたえておいたよ。樊遅がたずねた。それはどういう意味でございましょう。先師がこたえられた。親の存命中は礼をもって仕え、その死後は礼をもって葬り、礼をもって祭る。つまり、礼にはずれないという意味だ
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この言葉は論語の中でもわかりにくい範疇に入る。その原因は、「礼」という概念のわかりにくさとそれに対する考え方のわかりにくさである。現代社会との違いという背景もあるかもしれない。そもそも「礼」とは、古代中国における「人が従うべき社会の規範のこと」とされている。詳しくはわからないが、孔子の生きていた当時は、社会規範を守ることを強調しなければならないくらい社会秩序が乱れていたのかもしれない。
「社会の規範」と言っても、「親に仕え、葬り、祭る」となると、それは「社会秩序」のようなものというよりも、祭礼に近いものかもしれない。となると、この言葉をもって現代社会における教訓とするのは難しいかもしれない。しかしながらここでは敢えて「葬り」というキーワードに注目したいところである。と言うのも、ここのところこれについて、ずっと意識しているからである。
一昨年の伯父の葬儀の時、別の叔父の話を聞いたのであるが、その叔父は「戒名はいらない」と語っていた。日本の場合、葬儀の大半は仏教式だろう。お通夜があって、告別式があって、火葬して納骨がある。その間、住職に戒名をつけてもらう。叔父はこの戒名がバカバカしいという意見なのであった。その話を聞きながら、自分の葬儀はどんな風になるのだろうかと漠然と考えていた。
たぶん何も言い遺さなければ、残された子供たちは何も考えずに仏教式を選び、「さて宗派は何だろう」とそこから悩むに違いない。都会育ちの私は、幼い頃から檀家などという制度とは無縁。自分の父母の宗派も良くわからない。親に訪ねても「浄土真宗じゃないか」と言う程度である。それなのに葬儀の時だけ急に信徒になるのはおかしいだろう。いくら寛容な仏様でもバツが悪いし、自分の葬儀は仏教式にはするなと言い遺さないといけない。
すると戒名も不要だが、逆に焼香、位牌、仏壇といったものも不要となる。葬儀も僧侶を呼ぶ必要がなくなり、焼香も不要となると来た人はどうすればいいのか戸惑うことになるだろう。「形が決まっている」というのは、何事につけ便利なのである。サラリーマンもルーティン業務だけやっていれば楽なのと一緒である。
「仏教式で葬儀はやるな」と遺言するのはいいが、このあたり考えておいてあげないと子供たちに恨まれるかもしれない。考えてみると、私に限らずほとんどの人は宗教生活については私と似たり寄ったりだろうと思う。なのにみんな同じ仏教式なのは、ただ単にそれが「楽だから」に他ならない。みんなと同じが大好きな日本人だから、仏教と接するのは親戚や知人の葬儀の時だけだったりしても、他にどうしていいかわからないから葬儀といえば迷わず仏教式にするのだ。
だが、アマノジャッキーである私は何より「形より本質」。葬儀も形より心を重視したい。葬儀の時に、悼む心を持って来てくれたらそれで十分。僧侶のお経もいらないし(生きている時に聞いてもわけのわからないモノを死んでから上げられてもありがたみはないと思う)、戒名も不要だし(見ず知らずの僧侶がつけた意味不明の文字の羅列より親が一生懸命考えてつけてくれた名前でいたい)、初七日も四十九日も心でそっと思ってくれれば十分である。
ただ、親の場合は親の気持ちが一番。やはり従来の習慣に則って仏教式になるだろう。親は私のようにアマノジャッキーではないからである。戒名もつけてもらい、位牌を拝むことになると思う。あえて言えばそれが私にとっての「礼」とも言える。
自分の時は、まだまだ先だろうとは思うが、何があるかわからないし、今から意識して考えておきたいと思うのである・・・
【本日の読書】
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