2017年5月7日日曜日

宗教のあるべき姿

最近、『侍』を読み、『ノートルダムの鐘』を鑑賞し、その流れでキリスト教に関しいろいろと思いを巡らせた。自分自身、平均的日本人らしく宗教観は曖昧で、「なんとなくぼんやりとそれらしく振舞う」といった程度である。心から信じている神の像があるわけでもなく、せいぜい初詣とかに神社で手を合わせるくらいである。

ドライに考えていくなら、神様というのは人間の想像力の賜物だと思う。地球ができたのも生命の誕生も自然現象のなせる技で、あえていうなら、その自然現象を引き起こす力を神と名付ければ辻褄が合うだろうが、イエス・キリストの奇跡は今となっては検証のしようもないし、言い伝えの類だと思う。ただ、宗教は人間を謙虚にさせる効果もあるし、様々な効用があるから、信じること自体悪いことではなく、むしろ良いことだと思う。ただ、信者としての姿は如何なものかと苦言を呈したくなること、しばしばである。

その最たるものは、「なぜ自ら崇めるキリストのように行動しないのか」というところだろう。十戒では、「汝殺すなかれ」と説かれているにも関わらず、殺人はなくならない。ある程度の犯罪者は別としても、十字軍の歴史を紐解くまでもなく、「神の御名において」正当化された軍事行動は数え切れない。キリストの奇跡を信じるのであれば、キリストの教えたように行動すべきなのではないのだろうかと思ってみる。

例えば、イエス・キリストが現代に復活し、アメリカ合衆国に住んで大統領に立候補したら、間違いなく当選するに違いない。その時、イエスは必要な事態となった場合、果たして核のボタンを押すであろうか。それほど極端でなくとも、そもそも軍にシリアへの空爆のような作戦行動を命じるであろうか。「左の頬を打たれたら」と教えるキリストがそんな行動を命じるはずがない。だが、普通の大統領に選ばれるような人は、たとえクリスチャンでもそうは考えないであろう。銃規制ができないのも、規制されては困る銃器メーカーが裏で手を回しているのだろうが、神の教えに従うのであればそういうことはできないしさせないであろう。

結局、キリスト教徒と言っても、それは「都合の良い部分だけを都合良く」解釈して神を信じているというだけの話であると断言しても差し支えはないであろう。一人一人が、「もしもイエス・キリストであったらどう行動するだろうか」と考えて行動するのであれば、アメリカをはじめとした欧米諸国の行動も違ったものになるだろうし、世界は今よりもはるかに平和になっているに違いない。

もちろん、日曜日には必ず教会に行き、自らの行いを常に悔い改め、人には愛をと真面目に教えを守っている人もいるだろう。だが、大概は自分の都合の良いように教えを解釈し、神の御名の下、自分の好きなように行動しているように思えてならない。『ノートルダムの鐘』のフロロー大助祭の姿がそれをよく物語っている。私はクリスチャンではないから、神を信じながらもその教えに従おうとしない考え方はよくわからない。その点、我が国の宗教は寛容だと思う。

我が国の宗教は、主として神道になると思うのだが、神道では何かをしろと命ずることもなく、八百万の神々に対してはただ敬う気持ちだけを持てば良いというもの。他の宗教の神についても寛容であるから、仏教を始めキリスト教もイスラム教も禁止しない。歴史的に神道に宗教戦争がない所以である。日曜日の礼拝も、15回の礼拝も義務付けられておらず、思わず存在を忘れてしまいそうなほどである。そう考えると、我が国の神道は大事にするべきものに思えてくる。初詣以外にも折に触れ、ご近所の氏神様にお参りでもしないといけない気もしてくる。

人間は、ともすると尊大になりがちである。自分よりはるかに偉大な存在があるということは、人間を謙虚にさせる効果がある。人に頭を下げるのに抵抗がある人も、神様なら抵抗は少ないだろう。そういう意味で、宗教はあっても良いと思うし、自分も否定せずに受け入れたいと思う。そしてできるならその教えは、我が国オリジナルの平和的なものにしたいと思う。もしもこの先クリスチャンやムスリムの人と宗教について語る機会があれば、自信を持って我が国の伝統的宗教の信者を名乗りたいと思うのである・・・



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