弟と話をし、両親の傘寿の祝いをやろうということになった。どこかで食事をと考えたが、どこにしようかと迷う。昔からこういうのは苦手である。デートの時にどこに行こうかとか。今はネットでいろいろと検索できるが、それでも迷うものは迷う。誰かに決めてもらえるなら、こんなに楽なことはなく、むしろ決めてもらった方がありがたい。遠距離恋愛していた妻との結婚前のデートが楽しかったのは、相手の本拠地に行くためデートコースを考えなくてよかったからかもしれないと、今にして思う。
「自分で決めなくていい」というのは、極めて楽である。逆に自分で決めるとなると、プレッシャーがかかる。その選択が不評だった場合、その責任がすべて自分にのしかかるからである。自分で決めなくていいならこれほど楽なことはないと思うが、そうも言ってられない時がある。大好きな女の子にデートの約束をしてもらった時とか、仕事の時もそうである。そこで「決めてください」なんて言えば、次にデートに誘ってもOKしてもらえない可能性は大きくなるし、仕事ではいつまでたっても責任ある立場につかせてもらえないだろう。
今の会社では、私はかなり自分で決めている。職人さんからは、「言ってくださればなんでもやります」と言われているし、直属の上司は自分ではあまり決めないので、私が代わりにみんな決めて必要な指示を出している。それで会社も動いており、自分自身それで満足しているので問題はない。レストランを決めるのは苦痛だが、仕事で決めるのは何の苦労もない。むしろ何で自分で決めたがらないのか不思議なくらいである。
例えば、会社でみんなでやる仕事のスケジュールを決めるとする。私の上司に任せると、「みなさんいつがよろしいですか?」から始まり、それに対し、「私はいつでもいいです」「決めていただければそれに合わせます」などと答えが出てくる。すると、「じゃあどうしましょう?」となり、「私もいつでもいいのですが・・・」と続く。キャッチボールばかりでいつまでも決まらない。そしてその展開に業を煮やした私が、では「○月○日にやりましょう」と決めて終わるという具合である。
私の性格からすると、決断できずにダラダラしているのが心地よくないし、あれこれ指図されるのも然り。なので誰も決断しようとしない我が社の体質は、結果として私がみんな決められるという点で都合がいいと言える。ただ、「それでいいのか」という思いはどうしても残る。自分にとっては都合が良くても、その人自身にとって、そして会社にとっていいのかという視点である。
自分で決めないというのは、要は「責任回避」と言える。先のスケジュールの例などは遠慮と言えなくもないが、仕事というものは一つ一つ何かを決めないと進んでいかないものである。民主的に決めるのもいいが、ある程度誰かが責任を取って進めて行くことによってスピード感を持って進んで行くということもある。決めるということは、責任を取るということであり、そこには「自分が責任を持って進めていこう」という意思と主体性とがある。決められない人には当然それがない。
若い頃から、失敗を責められていると、人間は保守的になっていく。言われもしないことをやって怒られれば、次からは余計なことはするまいと思うようになる。ババを引かないようにとひたすら「謙虚に」仕事をしていれば、失敗はないかもしれないが、間違いなく「頼られる存在」にもなれない。本人の責任ではない部分もあるかもしれないが、いつまでもそれに気がつかないと「そういう存在」になってしまう。
自分自身、「そういう存在」とは程遠いと自負しているが、しかし事がレストランとなると途端に決められない存在になってしまう。もうデートコースを考える必要もないからいいかと言えば、今回の件もある。だが、苦手なのは仕方ない。頼られなくてもいいし、兄貴としての威厳もそんなところで発揮したいとも思わないし、したがって傘寿の食事会の場所を決めるのは弟に頼ろうかと思う私なのである・・・
【今週の読書】
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