子曰。君子食無求飽。居無求安。敏於事而愼於言。就有道而正焉。可謂好學也已。
子曰く、君子は食に飽くことを求むる無く、居に安きを求むる無し。事に敏にして言に慎み、有道に就いて正す。学を好むと謂う可きのみ。
【訳】(『漢文体系』)
先師がいわれた。君子は飽食を求めない。安居を求めない。仕事は敏活にやるが、言葉はひかえ目にする。そして有徳の人について自分の言行の是非をたずね、過ちを改めることにいつも努力している。こうしたことに精進する人をこそ、真に学問を好む人というべきだ
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孔子の説くいわゆる「君子」は極めて理想的な姿だ。ここでは飽食を諌め、家も贅沢なものは戒め、仕事は当然のこととして、言葉遣いや我が身の振り返りなど、修行僧そのものである。確かにそれだけしっかりやっていれば、「君子」と呼ばれるのもよくわかる。だからこそ、2,600年を経てもなお名を残しているのだろう。
それはそれで確かに立派ではあるが、では自分もそうしてみようかと思うと難しい。その最たるものは前半部分だ。衣食住とは人の生活の基本として挙げられるが、そのうちの食住に関する部分である。なぜなら、今の世の中には美味しいものが溢れており、そうしたものに目をつぶるのは非常に困難である。それに果たしてそれが現代の君子への唯一の道かという疑問もある。安居とは居心地のいい家といった感じであろうか、これも求めるのは人間の本能とも言える。
大前研一氏などの著書を読むと、「仕事も遊びもしっかりやる」というスタンスを貫いている。当然、美味しいものだって食べているだろうし、稼いだお金で世界各地へ遊びに行っているようだし、別荘だってあるくらいだから当然家もそれなりのものだと思う。大前研一氏のように、仕事も遊びも一流を実践している人は多いだろう。それが働くモチベーションになっているのかもしれないが、それが悪いとは思わない。そういう人たちが君子かどうかはわからないが、お手本を選べと言われたら、現代の方々を選びたいと思う。
これに対し、後半部分は大いに耳を傾けたいと思う。私自身、誰に対しても自分の考えをロジカルに説明、主張できる自信はある(妻を除いて、だが)。しかし、そういう自分では、それに対する危険性も感じている。自分の意見を主張するに熱心になるあまり、相手や周りが見えなくなることがあるからである。特に相手が言いたいことはあるがうまく説明できないと思われる時がしばしばあり、自分の意見に強い自信があると、反論が出てこないのも当然だと思いがちになることがあるのである。
過ちを改むることはもちろん大事だと思うが、それよりもまず自分の意見がどう相手に届いているかを知りたいと思う。それによって自分の意見を客観的に捉えることができる。自分の顔は自分では見ることができず、鏡があって初めてそれが可能となる。毎朝鏡を見るが如く、常に自分の意見についての「鏡」を持つように心掛けた方がいいということだろう。
そう考えると、後半部分は自分への戒めになる言葉である。孔子のいう「真に学問を好む人」というのは、謙虚に向上心を持つ人という意味と考えるべきかもしれない。孔子のいう真に学問を好む人には、食住の面でなれそうもないが、「鏡を見る努力」は怠らないようにしたいと思うのである・・・
【今週の読書】
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