先週末は、映画『日本のいちばん長い日』を観た。終戦間際の戦争終結に向けた動きを描いた映画である。敗色濃厚な戦況に、総理大臣に任命された鈴木貫太郎を中心として降伏へ向けた動きを探るのであるが、本土決戦を主張する陸軍が反発するという内容である。その対立は最後まで続き、結局、「聖断」という形で天皇に決めていただく形で終戦を迎えたのは周知の通り。そんなストーリーとあわせて、強く印象に残ったのは自分の意見に猛進する人の姿である。
本土決戦を主張する青年将校の畑中少佐。彼はポツダム宣言受諾へと向かう動きに我慢がならず、国体護持、本土決戦を周りに力説していく。そして降伏の動きを封じ込めようとするクーデター命令を出させようと近衛師団長に迫るが、当然受け入れてもらえない。そこで畑中少佐は師団長を殺害し、命令書を作成する。傍から見ればとんでもない行動であるが、本人からすれば、純粋な愛国心からの行動なわけである。そこが怖いところである。
誰でも自分なりの信念、考え方があるだろう。そしてそれが正しいと信じているわけである。だが、当然世の中にはそう思わない人もいるわけで、それは人それぞれ生まれ育ってきた中で、学習したり経験したりしてきた中から身につけた思考である。それが正しいかどうかなんて、単純な算数の問題の如く明らかなわけではない。立場が変われば異なるものもあって、一概に否定はできない。それが人というものであろう。
しかし、世の中には「自分の意見絶対主義」とでも言う人がいて、自分の意見こそが世の中の絶対正義と信じて疑わない人がいる。かつて大阪で橋下徹さんの絡んだ選挙があり、橋本さんは60万票獲得していたが、橋本さんを批判するある人物は、「大阪に60万人もバカがいる」とのたまわっていた。これこそ「自分の意見絶対主義」の典型である。自分とは異なるとはいえ、60万人もが賛同する考え方なわけである。当然ある程度の敬意はあってもいいだろう。少なくとも自分はそう考える。
相手には相手の考え方がある。自分とは異なるのであれば、まずどうして異なるのか、自分であればまずそれを聞く。ひょっとしたら自分の知らない情報を持っていて、それを知れば自分の意見も変わるかもしれない。ならばじっくりと聞いてみるべきであろう。あるいは立つ位置によっても違うだろうし、もしかしたらそちらの視点の方が大事かもしれない。そう考えれば、間違っていたらすぐ改めるためにもまずはその主張を聞くところからだろう。
ところが、「自分の意見絶対主義者」は、自分の意見が絶対であるからこそ相手の意見になど耳を傾けない。ネットの世界をのぞいてみれば、そんな人たちがウジャウジャいる。安倍総理批判を展開する人たちなどがその典型である。こういうからには、自分は「自分の意見絶対主義」には陥っていないと思っている。かつて東北に住む先輩Hに、護憲派としての意見を聞いたことがあるが、それがその表れである。
安倍総理の考え方に批判的な先輩Hであるが、その考え方は自分とはもちろん異なる。先輩Hの意見を聞いたが、残念ながら納得できるものではなかった。したがって自分の意見を変えるところまでいかなかったし、自分の意見の正しさが改めてわかったと思う。ただ、だからと言って先輩Hに考え方を改めさせようと思うかと思えばそうは思わない。それは先輩H個人の居心地の良い心情であって、それを否定することは誰にもできない事だからである。相手の考え方を尊重するということは、自分の考え方を尊重するのと同様、大事なことだと思う。
畑中少佐の純粋な愛国心はよく理解できるが、近衛師団長を射殺し(史実では刀でとどめを刺したようである)、命令書まで偽造してしまうのは当然やり過ぎである。自分の考えに酔いしれるあまり、他人の考えを尊重することまで思い至らなかったわけである。そして怖いと思うのは、やはり今でもこういう人が多いと思われるところである。「60万人ものバカ」とのたまう人は、おそらく自分は畑中少佐ではないと思っているだろうが、相手の意見を尊重しない「自分の意見絶対主義」という点ではまったく同じである。
幸いにして畑中少佐の企みは挫折し、玉音放送は無事放送され、日本は無条件降伏した。クーデターが成功していたら、さらなる悲劇が引き起こされていたに違いない(3発目の原爆投下とか、ソ連による北海道の占領→戦後の分断とか・・・)。大きな悲劇は当然であるが、日常の小さな悲劇であっても、互いに互いの考えを尊重する考え方があれば悲劇は起こりにくい気がする。ビジネスの現場などでもそうだと思う。
かく思う限りは、「自分の意見絶対主義」に自ら陥ることのない様、自分の考えを一歩引いて客観的に眺められるように心掛けたい、と思うのである・・・
【本日の読書】
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