シェークスピアの名作『ヴェニスの商人』は、悪徳ユダヤ人商人を賢い娘がやり込めるストーリーで、誰にも馴染み深い物語である。しかし、その印象も名優アル・パチーノがシャイロックを演じた映画を観るとだいぶ変わる。冒頭から描かれるのは、徹底した「ユダヤ人差別」である。ゲットーと呼ばれるユダヤ人街に押し込められて暮らし、蔑まれ嫌がらせを受けるのは日常茶飯事である。
第二次大戦後、イスラエルが建国されるまでユダヤ人は故国を持たず、世界各地に分散。『逆説の世界史2』でも描かれているが、イエスを死に追いやった民族として歴史的に忌み嫌われ、差別を受けている。ユダヤ人はその商売の才を持って生き抜いてきたが、特に金融面でのそれは金貸しにもなり、借りた金が返せないとなると、取り立てをしようものなら悪人とされてしまうのである。
悪の象徴ダース・ベイダーも、『エピソードIII』でフォースの暗黒面に陥る経緯が描かれるが、その過程は愛する人を救いたいという気持ちからのものであり、その行動にも立派な理由がある。オズの魔法使いで悪役として描かれた西の魔女も、『ウィキッド』を見れば悪のイメージは無くなるだろう。すべてフィクションと言ってしまえばその通りであるが、物事の二面性は実生活でも単純に善悪で色分けできないものがあると感じることしばしばである。
例えば、先日シリアの停戦を巡り、米露の停戦合意が崩壊したと報じられていた。国内では、「アメリカ=善」、「ロシア=悪」という図式で語られることは多いが、冷静に双方の主張を見ると、それぞれに言い分があるものだと思う。ウクライナ問題にしても、同じことをアメリカはコソボでやっているし、互いに国益をぶつけ合う大国同士、どっちが善でどっちが悪と決めることはできない気がする。
そう考えると、日常の議論などはもっと「どっちもどっち」の世界だろう。それぞれに元となる考え方があって、それぞれ「正しい」と思う意見を主張する。「消極的」も裏を返せば「慎重」だし、どちらのサイドから焦点を当てるかによって見方も考え方も変わるだろう。昔は自分が正しいと思ったことは、絶対的に正しいという感覚があったものだが、最近は「相手の正義」も理解するようにしている。相手の意見を認めた上で、その問題においては自分のやり方の方がいい結果になるのではないかと説明・提案するようにしているのである。
議論においては、相手を論破することにあまり益はないと感じている。それよりもどう考えを変えてもらって同意してもらえるか、だ。特にビジネスの現場では己の快感よりも実利を取りたいものである。それには相手の考え方を理解し、その上で「こう考えたらどうか」と提案し、同意してもらうようにできれば話が早い。最近は、そんな工夫を心掛けている。ただ、残念なことに、それは相手に聞く耳があっての前提で、我が家の家庭内のように「絶対君主」が君臨しているところでは、成り立たないのが残念なところである・・・
【本日の読書】
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