2016年8月28日日曜日

電子書籍

 世の中日々進歩していて、スマホが当たり前のように日常生活に溢れている光景は、10年前にはなかったものである。そんな中で書籍の世界も「電子書籍」が登場し、かなり普及してきている。普段通勤途中で本を読む私だが、年間100冊以上読むとはいえ、まだこれに手を出してはいない。

それにはいろいろ理由があって、読みにくそうだとか、本の方が後からページを戻って読み返すのが便利だとかであるが、それが本当の理由かというと、実はそうでもない。「もうちょっと便利になってからでもいいだろう」という軽い程度である。『ガラケーにこだわる』スタンスを批判する以上、電子書籍を否定するわけにはいかない。

ではいつからかと問われると、「そのうち」と答えていたが、昨日ついに手を出した。キンドルのアプリをとりあえずiPhoneにインストールし、記念すべき最初の電子書籍を購入した。『老子-もう一つの道』である。なぜ電子書籍に手を出したのかというと、答えは簡単で、「電子書籍でしか手に入らないから」である。本屋に行ってもこの本は売っていないし、そもそも形すらこの世に存在しないのである。

そして衝撃的だったのが、何よりもこの本の著者が先輩Hであったということである。先輩Hも、私と同様というか私以上の読書家であり、先輩Hの読む本は常に私の関心事である。その先輩がいつの間にか本を書いていたという事実に、私は衝撃を受けたのである。そして「本を書く」ということが、かつては遠い世界だったものが、手を伸ばせばすぐ届く現実の世界のものになったと意識させられたのである。

およそ、本好きの人間なら、「いつか自分も本を書いてみたい」と多少なりとも思うだろう。私も例外ではない。そしてそう思いつつ、日々の忙しさを理由に先送りしている人が大半だろうと思う。もちろん、「何を書くか」という問題もあるが、たとえ書けたとしても、どこの出版社に原稿を持ち込もうかとか、現実の行動もまたハードルが高い。

高校時代、やはり本好きの友人は、自ら原稿を書き出版社に送付した。後日それは本人も読めないほど達筆な手紙とともに、真っ赤になって返ってきた。なんでも出版社の方で手直しをすれば、出版も考えるというような内容であった。私も「すごいな」とその何が書いてあるか判読できない手紙を見ながら思いつつ、しかし原型をとどめないほど修正されて果たして著者と言えるのか、という疑問も同時に感じたものである。結局、その友人はそれ以上の行動はとらずに終わったが、必ずしも自分の書いた通り出版されるわけではないという事実に気がついたエピソードである。

我々一般人にとって、本を出すとなると、そんな覚悟をして出版社に認めてもらえるように頑張るか、あるいは自費出版という方法しか今まではなかった。自費出版も『夢を売る男』のような本を読むと、お金もかかるし、それで商売されるかもしれない可能性もあるわけで、そうなると躊躇するところがある。しかし、電子出版となると、それらの紙の本にまつわるハードルは一気になくなってしまう。

もちろん、出版のハードルが低くなっても、売れるかどうかはまた別の問題である。出版社はまずこの売れるかどうかを考えるので、売れそうな内容かどうかは当然として、本のタイトルなどのようなことも出版社の意向で決まるという。書店でちょっと売れた本が出ると、二番煎じの内容や関連やタイトルの本が溢れるのも、出版社のプライドのない営業方針の表れだとよくわかる(さしずめ今は田中角栄がブームである)。電子書籍は、そうした出版社の邪念から自由になれるが、その代わり売れるという保証はまったくない。むしろよほど著者が著名人でない限り、売れる数は限られることになるだろう。

しかし、先輩Hの出版にはいろいろな可能性を感じさせるものがある。印税で儲けようという考えでもない限り、出版のハードルが低いことはもっと自由に本を書くことを考えられることになる。今は紙の本に強いこだわりを持つ人たちが多いかもしれないが、やがてそれも少数派になるだろう。「やっぱり紙でなきゃ」といつまでも言わないようにしないといけない。そして「いつか書こう」ではなく、「とりあえず書いてみよう」と考え方も切り替えないといけないだろう。

まずは先輩Hの処女作を読んでみて、考えたいと思うのである・・・



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