2016年5月22日日曜日

素顔のままで

大学のラグビー部の先輩と久しぶりに会った時のことである。その先輩は就職の時にも大変お世話になり、しばらく東京と大阪と離れていたが、久しぶりに会う機会があったのである。飲んでいるうちに、その先輩に言われたのが、「来てるなぁ〜」という一言。私の髪が薄くなったと言うのである。

祖父と父親との遺伝を考えると、私も髪については危ないとずっと以前から自覚している。しかし、心配したほどひどくはなく、とりあえず今は美容師さんのアドバイスもあって短髪にしている。もちろん、昔から比べればだいぶ薄くなっているが、それでも全体的にゆっくりと後退していくタイプであり、「バーコード」や「カッパ」型の貧弱なタイプでないのが救いである。

人にあからさまに言われたのはほとんど初めてであるが、家では家族から散々言われているので、自分で思うほど大丈夫でもないのだと思う。だが、こればかりは嘆いても仕方ない。養毛育毛いろいろあるが、これといった決め手になる解決策は現在の技術ではない以上しかたがない。せめていたわって「長〜い友達」でいるほかないと思っている。

いわゆるハゲについては、「カツラ」という解決策が世の中にはある。しかし、私は死んでもカツラだけはしないであろう。カツラを被るくらいなら、いっそのこと全部剃り上げることを選ぶだろう。今でもいつでもそうしても良いと思っているが、難点は「頭の形がいびつなこと」である。大学時代に頭を丸めた時、自分の頭の形がいびつでカッコ悪いことに気がついた。そこは悩ましいところである。

大学時代のラグビー部の先輩に若ハゲの人がいた。20代でちょっと気の毒であったが、卒業後、風の噂にカツラにしたと聞いている。なぜ「風の噂」かと言えば、卒業以来会っていないからである。私も割とラグビー部の集いには顔を出している。だから会わない人というのは、ほとんどそういう集まりに顔を出さない人である。顔を出さないのは、「昔の髪型」を知っている人には会いたくないのかもしれないなどと邪推したりしている。

一方、カツラをカミングアウトしている人もいた。言われてよくよく見れば「そうかもしれない」というほどの見事な代物で、外してくれというリクエストには頑なに拒まれたが、機会あれば見てみたいと今でも思う。また、見るからに「カツラだろう」という人を見かけたこともある。いかにも不自然な髪型で、同じカツラでもいろいろあるものだと思わざるをえない。

カツラを利用する人の気持ちはわからないでもないが、私からすればそれは「知ったかぶり」と同じで、どうしても自分で利用したいとは思えない。「知らない」のに「知っているフリ」をする「知ったかぶり」と同じとは酷い言い草と思われるかもしれないが、「生えていないのに生えているフリ」も同じである。どちらも「知らない」「生えていない」という状態を「恥ずかしい」と考え、それを隠しているという点で同じである。

人はそれぞれだから、恥ずかしい部分を隠したいという気持ちもよくわかる。私も腹回りは人に見せたくない。だが、ソクラテスが「無知の知」を説いたように、見栄を張らずに「生えていないものは生えていない」とした方が、「知っているフリ」をする心苦しさからも解放されるだろうし、いざ「知らない」ことが発覚した際の気まずさよりはるかにマシだと思うのである。

繰り返すが、カツラを利用する人を非難するつもりはない。それで安堵感が得られるならそれも大事な解決策である。あくまでも私個人は、「無知の知」を大事にしたいと思うということだけである。これからもその信念は変わらないであろう。願わくば自然に自毛が生える技術が早く開発されて欲しいものである。カツラの製造技術アップもいいけれど、究極的にすべての男の願いとして、そこに力を注いで欲しいと思うのである・・・



【今週の読書】
 
     

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