2016年2月18日木曜日

錦の御旗

子供の頃、学校でいたずらをするとよく女子に「いけないんだぁ~、先生に言いつけるわよ~」と言われた経験がある。
だれでも似たような経験はあるだろう。
何気ない一シーンであるが、日本人の体質をよく表すシーンではないかとこの頃思う。

歴史を振り返ってみると、日本は天皇家が代々支配する形を取ってきた。
政治の実権が幕府に移っても、征夷大将軍を任命するのは天皇だし、したがって幕府の最後も「大政奉還」であった。
戊辰戦争で威力を発揮したのも「錦の御旗」である。

考えてみれば、これは日本人が自分以外のものに「権威」を求めるところからきている証であると思う。欧米や中国など個人主義の国々では、自ら「正当性」を主張する。
だから権力を奪取して王朝が交代するのだし、現代でもディベートなどが発達し、相手を論破する。
ところが、日本では「権威」が正当性の根拠となる。
だから大事なのは「主張の内容」ではなく、「権威に認められている」ことであり、だから日本人は議論が下手だと言われるのだと思う。

その昔、もう内容は忘れてしまったが、親と議論をした時に「私はいいけど世間が許さない」と言われた事がある。
何のことはない、自分が非難されるのが嫌なので、「世間」のせいにしたのであるが、これも「自分の主張ではない」という形を取り、直接の批判をさけるとともにその責任を「世間という権威」に委ねた形だろう。

こうした形は様々な形で随所に表れていると思う。
「社長がそう言った」
「世論が・・・」
「○○先生が言うには・・・」
等々である。
役所の前例踏襲主義もこの一種であると思うし、鬼畜米英と言っていたのが、終戦で一気に親米へ大転換したのもそうだと言えるし、同じことを言っても自分が言った時は退けられたのに役員が言えば「仰せの通りに」となるのもそうだと言える。
これが権威だと言われれば、個人で異を唱えにくくなるのである。

それが良いか悪いかは別として、既にそうした考え方が日本人のDNAとして染みついていると思う。
「家」制度の下、個人より組織を重んじる風土の中で、自分のことよりも「大義」=「権威」を重視してきた日本の社会ならではの流れであろう。
自分の意見を下げるという謙譲の精神はいいと思うのだが、その反面、「権威主義」的になってしまっているところは否めない。

そんな我が国の伝統とはいえ、個人的にはやはり自分の意見の正当性は、自分で持たせたいと思う。
「誰々がそう言っている」とか、「賞を取った」とかそういったものに根拠を求めることなく、自分自身を根拠としたいと思う。

と同時に、いずれ子供たちにもそんなことを教えたい。
そうして新聞に書いてあるからとか、誰々が言っているからとか、そうした「権威」を無批判に受け入れ、考えることを放棄しないように育ってほしいと思うのである。
まずは、「先生に叱られるから」ではなく、「良くないから」ダメだというところから始めるのがいいかもしれないと思うのである・・・






【本日の読書】
 
    

0 件のコメント:

コメントを投稿