2013年9月28日土曜日

子供を叱る時・・・

 先週の事である。息子と一緒に入浴中、背中を洗っていない事を指摘し、背中を洗うように注意した。それまでもしばしばあった事であるが、その都度息子は「洗った」と主張していた。こちらも頭を洗っていたりする時に重なったりすると、わからない事もあり、それ以上何も言わなかったのであるが、その時は閃きのようなものもあり、黙って観察していたのである。

 それで洗っていないのを確認して注意したところが、冒頭の対応。
「嘘をつくな!」
「嘘なんてついていない!」
「ちゃんと見ていたぞ」
「洗ったっ!」
「何だその言い方は」
「だって、洗ったって言ってんじゃんか!」
「こっちは背中見て言っているのに、背中の見えないお前がどうして洗えてるとわかる?」
「鏡見たもん!」
「こんなに曇っているのに見えないだろう」
「曇る前に見たもん!」
「曇る前っていう事は洗う前じゃないか!」

 こちらはしっかり見ているのに、嘘に嘘を重ねて強行突破しようとし、しかも最近この手のやりとりでは必ずと言っていいほど、不敵な態度とモノ言いになる。最後はこちらも、「そんな口の利き方をしていいのか」と警告。態度を改めようとしない息子に対し、ついに私のビンタが右頬に炸裂。バランスを崩して湯船に落ちそうになったから、そこそこの威力だったと思う。それでも態度を改めず、さらに2発追撃。息子の右頬は赤くなった。

 娘の時は一度だけ頬を張った事がある。以来2度目は今のところないが、息子に対しては何回かある。そのあたりはさすがに男の子なのだろうか。成長するに従って自我も芽生えてくる。周囲の影響もある。親の言いなりになる事を拒絶し、自らの意志表示を強くする事は、人間の大事な成長過程であると思う。

 ただ世の中には、守るべき道というものがある。自由に伸びる枝が、誤った方向に行こうとした時には、壁となって立ち塞がるものが必要である。それが親の役割というものだろう。ただ、体力に遥かに勝る親が、いくら躾や教育のためとはいえ体罰に及ぶのは注意が必要だと思う。

 まともにやったら、子供は怪我をする。そうなると躾とは言えず、虐待となる。だからひっぱたく時には、「自分は冷静か、怒りにまかせたままでないか」を問うようにしているし、利き腕は使わず、左手で狙いすまして、力の加減も考えてやるようにしている。今回もそのようにできたから、自分としてはうまくできたと思う。

 叩く場所も、お尻という考えもあるが、自分としてはやはりインパクトのあるところがいいと思う。頭は平手だと効果は薄いし、げんこつだと力の加減が難しい。的の小さい頬であれば、狙いすます事によって力のセーブも加えられ、その割に音も衝撃力もあるから、効果もデカイと思っての事である。

 問題はその効果である。当然、本人は「ちきしょう」と思うだろうし、それでもかなわないから大人しくならざるを得ない。「恐怖による支配」と言えばその通りであるが、子供にとっては「怒られるからやらない」という事も必要だろう。やがて成長すれば、「怒られると怖いからやらない」から「やるべきでないからやらない」に変わって行く。親の役割は、大人の判断力が身につくまでの防護壁であるのだろう。

 私に怒られてビンタされた息子。悔しそうな表情をしていたが、それでも泣かなかったのは褒めるべきなのかと複雑なところ。風呂の後、いつもは早く寝なさいと口やかましいママも、この時ばかりは優しく布団へと導く。「両親一緒に怒らない」というのは、妻と決めた夫婦のルールである。

 子供を褒めるのはとても簡単。子供も親もともに気分が良い。だけど叱るのは本当に難しい。特に体罰を伴う時は尚更である。それが本当に必要なのか、単に感情に任せた結果ではないのか、その効果は子供にとって良いものになるのか。自分では正しいと思っているが、結果が出るのはずっと先だ。

 「親父は怖くて、よく外の木に縛り付けられた。近所の人に見られるのが嫌だった」とは、親父が子供の頃祖父に怒られた思い出として、しばしば語ってくれた事である。いつか息子がそんな風に、懐かしそうに語ってくれるだろうか。そしてそうなったならその時初めて、親として「良くできました」となるのだろう。そんな風になるように、愛情と信念とを持って、叱りたいと思うのである・・・

【今週の読書】

コブラ 上 (角川文庫) - フレデリック・フォーサイス, 黒原 敏行






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