2012年11月30日金曜日

イスラエル

 イスラエルは中東のど真ん中に位置する国である。世界の火薬庫と言われた紛争地帯で、つい先日もイスラエルとハマスがガザ地区で衝突した。ハマスは1週間で1,000発を越えるロケット弾をイスラエルに撃ち込み、イスラエルは、“Iron Dome”という迎撃システムで300発ほどそれを撃ち落としたものの、着弾被害も免れず70人程の被害者が出ている。

 イスラエルは、報復として空軍によるピンポイント爆撃を行い、幹部の自宅やハマス政府ビル・警察・ミサイル基地など1,300カ所を破壊している。
ようやく休戦になったものの、あくまでも休戦に過ぎない。

 突然飛んできたロケット弾で、母親と自らの指を失ったユダヤ人の男の子の話や、イスラエル軍の爆撃で瀕死の重傷を負い、ガザでは手当てできず、イスラエル側の病院に恐る恐る入院したパレスチナの子供の話がCNNのニュースで紹介されていた。この子たちも大人になったら、やっぱり憎しみ合って戦うのだろうか。日本人的な感覚では、どうにか話し合いで仲良くできないものだろうかと思わざるを得ない。

 されど2000年の放浪生活を送り、世界各地で嫌われ迫害されたユダヤ人は、身を守るために身につけた商才も「金持ち忌み嫌われる」で嫌われ、それはシェイクスピアにも強欲な商人として叩かれる(「ベニスの商人」)ほどだった。ナチスによるホロコーストを乗り越え、ようやく先祖の地に自らの国を築いたユダヤ人には同情しうるものがある。

 されどユダヤ人が追い出されたあと、2000年も祖国として暮らしてきた土地に、突然ユダヤ人がやってきて国を作り、追い出されたとなっては、パレスチナ人の無念もよくわかる。たかだか230年ちょっとのアメリカの歴史を考えてみても、2000年の歴史は長い。ちょっとやそっとでは、やっぱり解決しないだろう。

 私がこの地に興味を持ったのは、もう中学生くらいの事だ。この頃から歴史好きだったのだが、キリストの時代のこの地域の事に特に興味を惹かれたのである。たまたま友人の家が教会であった事もあり、頼んで聖書を一冊売ってもらったのだが、創世記から始る旧約聖書はなかなか面白い「読み物」であった。

 チャールトン・ヘストン主演の「ベン・ハー」はこの時代の物語であり、もちろん、キリストも出てくる。そのものすばり「ナザレのイエス」という映画を観に行った事もあった。しかし、かと言ってキリスト教に帰依するまでには至らなかった。新約聖書を読んで、確かにキリストの言動には心を動かされるものはあったし、「愛の宗教」と言われるキリスト教が世界に広まった理由も良く分かったが、聖書は私にとってあくまでも歴史書であったのである。

 3つの宗教の聖地であるエルサレム。この何とも言えない響きの名前を持つ都市を訪れてみたいという気持ちはいまでもある。ゴルゴダの丘やなげきの壁を見てみたいし、死海に入って浮かんでもみたい。旧約聖書の舞台に対する憧れは今でも強い。


 しかし、自爆テロがあったり、ロケット弾が飛んできたりという一触即発の紛争地に、のんきに観光気分で訪れるのも、なんだかなぁと言う気がする。この地に真の和平が訪れるのはいつの日の事なのだろう。

 シリアのアサド政権が倒れ、民主政権が誕生したら、イスラエルとの間に和平の空気が訪れるだろうか。シリアが折れれば、ヒズボラも後ろ盾を失うから武闘派は大人しくなるだろうか。北が平和になれば、南のガザもそういう空気になるのだろうか。自分が生きて元気なうちに、和平が成立しないものだろうか。

 平和なエルサレムに、いつの日か訪れてみたいと思うのである・・・

【本日の読書】

もし、日本という国がなかったら (角川ソフィア文庫) - ロジャー・パルバース, 坂野 由紀子 ジェノサイド 上 (角川文庫) - 高野 和明











   

2012年11月23日金曜日

ブログ4周年

 いつの間にか11月も終わりに近づいている。朝晩めっきり寒くなり、そろそろコートを着ようか、まだ早いかと迷いつつ、毎朝家を出ている。道路脇の銀杏もだいぶ黄色くなってきている。


 この頃、非常に忙しくなってきた。家に帰ってきてもやりたい事がいろいろあって、なかなかこのブログの更新ができない。このブログをはじめてちょうど4年たった。当初は2日に一度の更新ペースであった。毎日でも書く事があった。それが徐々に間隔が空きだして、最近はとうとう一週間に一度のペースになってしまった。

 これが実はストレスになっている。書く事がないというわけではないのであるが、書く暇がないというのが実情。「暇など工夫次第でいくらでも作れる」というのが信条な自分であるが、確かにブログを最優先にすればできない事ではない。しかし、そうはいかないからストレスなのである。

 あれもこれもと手を広げ過ぎているのは事実だが、やりたい事を楽しみながらやろうと思っていたら、こうなってしまった。やめるのはもっとストレスだから仕方がない。まあなるべくマイペースでやろうと思っている。

 中学受験を控えた娘は、意外によく勉強している。地元の都立中高を目指しているのだが、自分で行きたいという気持ちがあるからだろうが、塾にも熱心に通い、帰って来てからも復習し、私にもよく質問してくる。国語や算数は何とか答えられる。しかし、小学生の算数はなかなか手ごわかったりする。何せうっかり連立方程式を使って簡単に解こうものなら、「Xなんてやり方習っていない」と言われてしまう。そしてXを使わずに解くのはなかなか難しかったりする。

 困るのは理科系だ。何せ私は根っからの文系人間。高校時代唯一“実力で”赤点を取ったのが化学だった男だ。やっぱり社会人になってもそれは生きている。

 先日のこと、塾へ娘を迎えに行った帰り道、二人で夜空を見上げて月がきれいに見えるという話をしていた時の事だ。文系人間としては、「昔の人が夜空を見上げて思った事」なんてロマンチックな話をしたかったのだが、娘は「どうして冬は空気が澄んで、月がきれいに見えるの?」と聞いてきた。「う~む、夏は暑くてもやもやしているからじゃないか」と答える私。答えていて情けない思いをしたのは言うまでもない。

 これから寒さも本格化するだろう。それはそれで大変であるが、四季折々、寒さも楽しみたいと思うところである。
「冬来たりなば、春遠からじ」
 来年の春は娘にとっても明るい春になってもらいたいと思うのである・・・


【本日の読書】

もし、日本という国がなかったら (角川ソフィア文庫) - ロジャー・パルバース, 坂野 由紀子 ジェノサイド 上 (角川文庫) - 高野 和明





2012年11月14日水曜日

両親

たはむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
石川 啄木

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 ちょうど今朝から『ハーバードの人生を変える授業』という本を読んでいる。最初のページのタイトルは感謝。毎日感謝する事の効能が書かれていた。その際、たとえば感謝する対象として「両親」とするなら、両親の姿をきちんと頭の中でイメージする事と書かれている。そんなところを読んだためか、両親に感謝するという事を考えてみた。

 そんなのはありきたりで当たり前のような気がするが、そう思える事自体ありがたい事だと今さらながら思う。しかし、子供の頃はと言えば、正直言って金持ちの家に生まれたかったと幾度となく思ったものである。別にひもじい思いをした事などなかったのだが、やっぱり大きな家に住んでいる友達や好きなものを自由に買える友達には引け目を感じた事は事実だ。

 家に友達を呼んだのも小学校の低学年までで、高学年ともなると、何となく家を見られるのが嫌で呼ばなくなったと記憶している。もっとも、あの頃は家族で一間のアパート住まいという友達もいたから、一軒家で伯父夫婦と上と下に分かれての生活はそんなにおかしくもなかったと思うが、そこは子供心というやつだろう。


 父は次男、母は三女という夫婦で、ともに故郷の長野県をあとにして東京に働きに出て来た経歴だ。親父などは住んでいる地域自体が貧しかった事もあり、中学を卒業してすぐの上京だった。何の支援もない状態で、それでも何とかやりくりしての生活だっただろうから、大変だったと思う。

 蒲田に住んでいた叔父も似たような暮らしぶりだったが、そんな苦労を子供は知るはずもない。
運動会や授業参観に来てくれたのはすべて母親だった。着物姿で教室の後ろに立っていた姿を今でも覚えている。友達家族と海へ行った時も、従兄弟の家に遊びに行った時も、一緒にいたのはすべて母親。たぶん親父は仕事が忙しく、日曜日くらいは体を休めたかったのだろう。

 先週末は、息子とキャッチボールをした。楽しそうに、そして一生懸命ボールを取っては投げてよこす我が息子。そんな息子を見ていると、こちらも楽しくなる。キャッチボールが楽しいのは、子供だけではない。自分は父親とキャッチボールをしただろうかと考えてみると、実ははっきりとした記憶がない。息子とそんな一時を持てなかったというのは、実は親父にとっても気の毒だったと思う。

 家の事は女がやるという時代風潮もあっただろうが、親父に遊んでもらった記憶はほとんどない。学校の事も、ほとんど口を出された記憶がない。今日は何をしただとか、試験で何点取っただとか、運動会で何をやるとか、どこの高校に行きたいとか、どこの大学を受けるのだとか。それらの記憶はみんな母親だ。

 だが大学に合格した時には、突然時計を買ってもらったし、結婚や家を建てるといった節目にはそれなりの事をしてもらったから、親父も心の中では思ってくれていたに違いない。物静かな親父と口やかましい母親と、典型的なコンビのような両親だが、居てくれて良かったし、社会に出るまで居心地の良い家庭を維持してくれた事はやっぱり感謝すべき事だ。

 世の中には、そんな両親も家庭も持てない人もいるわけだし、それは決して自分の招いた不幸ではなく、ただただ不運だったとしか言いようがないのだから、尚更そう思う。結婚して最初に住んだアパートの隣の家は、子供を小学校にすら行かせていなかった。将来あの子がどんな大人になるのかわからないが、それはあの子の責任ではない。自分がそんな不幸を背負っていたとしても、不思議はなかったわけである。

 結婚したらそんな両親ともども一緒に生活を、なんて考えていた事もあったが、実際に結婚してみると残念ながらそれは実現困難な事だった。一緒に暮らせている他人を見るにつけ、今でも羨ましく思う。世の中自分の意思だけではどうにもならない事もある。最近はすっかり不肖の息子となってしまっているのを申し訳なく思うだけだ。

 感謝なのだか、反省なのだかわからなくなってしまったが、そんな両親にはしっかりとした家庭を築いている姿を見せなければと強く思う。いろいろと思う通りに行かない事が多いのであるが、それはそれで努力だけは怠らないようにしたい。受取ったバトンは、しっかりと次に渡さないといけない。

 そうしてせめて心配だけはかけないようにしていこうと思うのである・・・


【本日の読書】
ハーバードの人生を変える授業 - タル・ベン・シャハー, 成瀬まゆみ 運命の人(四) (文春文庫) - 山崎 豊子






2012年11月11日日曜日

大学について

 先日、田中真紀子文科相が認可を見送った3大学だが、批判の嵐に屈したのか、あっという間に逆転認可になってしまった。そもそも手続的に不認可としてもおかしくはないし、認可前に建物は建ててしまうし、教員も募集してしまうしという話を聞くと、何のための大臣の認可だかわからない。それにそもそも新たな税金投入して、大学を増やす必要性があるのかもわからないままだ。

 大学全入時代と言われているが、それが本当に国力に結び付くならありだろうと思う。かつて鎖国をしながらも寺子屋体制で、世界一の識字率を誇った我が国である。国民すべてが大学卒であるくらいのレベルであれば、世界の中でも経済大国の地位を維持していけそうな気もする。本当に国際競争力がつくならもっと増やせばいいと思うのだが、果たして今の大学はそれに値するのであろうか。

 そんな疑問を持つのも、自らの体験談があるからである。私自身、猛烈な受験勉強を経て大学に入ったが、待っていたのは「一般教養課程」と称する“高校の延長のような授業”。法学部に入ったのに、英語や数学や体育まであった。法律の勉強は週2コマ(1コマ90分)くらいだったと記憶している。

 第2外国語のロシア語はそれなりに面白かったが、英語の授業などひたすら英文和訳だけで面白くもなんともない。ただ1年上の先輩が同じ講義を受講していて、時折指されては独創的な解釈の和約を披露してくれたのが面白かったくらいだった(なにせ先輩の和約は難しくて、英文を読まないと何を言っているのか良く分からなかったのだ)。

 すでにラグビー部の門を叩いていた私にとって、体育などはチャンチャラおかしくてやれるものではなかった。まぁそれなりに「体を動かさない」あるいは「やってみたい」と思うものから、アーチェリーやテニスを選択したが、これはこれで正解だったと言えるが、それ以外は苦痛の時間だった。こうした一般教養課程は、学生の学びたいという意欲を奪う効果がある。

 周りはみんな授業になど出ていなかったし、週12コマ授業に出ていた私は、かなり変り者の存在で、友達が少なかったから正確にはよく分からないが、知る限りの範囲では、平均の2倍以上の出席率だったと思う。それに加えて体育会のラグビー部での活動もたっぷりやったし、成果は乏しかったが合コンにもたくさん参加した。文“部”両道で満足のいく4年間だった。

 しかしそれも文系の甘さもあったようで、理系はそもそももっと授業に出ないといけなかったようなので、授業に出ない事が粋というな雰囲気は、文系大学の傾向なのかもしれない。今のこのボーダレス時代に失われた20年をもがいている真因は、こんな学生たちが社会の中核にいるからではないのかという気もする。

 個人的には大学は狭き門でも良いように思う。選ばれた人しか入れないとなれば、入るためにみんな一所懸命勉強するし、出口を絞れば入ったあとも勉強するだろう。大学側は大学側で、高校生のレベルが低いという事を問題視しているようだが、それは言い訳に過ぎないと思う。

 本当に日本の将来を考えるのなら、頑張って勉強して入ってこそであり、滑り止めで受けて他に行くところがなくてしかたなく行く大学に意味があるとは思えない。教育を受ける権利を主張するのであるならば、それなりの義務(努力)は必要だろう。それは本来、学力があっても経済的な理由でいけない人に対してこそ、満たされるべきものであるはずだ。

 せっかく不認可にした3大学を、恐らくそこで潤う人たちの思惑で、我々の税金がまた無駄に流されるのは何ともやりきれない。こんな事をしていると、本当に我が国はダメになってしまうだろう。せめて自分の子供たちは、きちんとした考え方を身につけさせ、「まともな」大学に通わせたいと思うのである・・・
      




2012年11月4日日曜日

マスコミが国を滅ぼす2

常々マスコミのあり方には疑問を抱いている。
マスコミは本来、事実を事実として報道していればそれでいいと思う。
その事実について、独自の見解を述べる必要はないと思うのだが、それは間違った考え方なのだろうか。そんな事を考えさせられるニュースが、また一つ目についた。

【田中文科相 答申否定は裁量権の逸脱】*****************************************************************
不安が現実になった。田中真紀子文部科学相が大学設置・学校法人審議会の答申を覆し、来春開校予定の3大学の設置申請を不認可とした。ルールを無視した判断で、到底認められない。 田中文科相は不認可とした個々の具体的理由に言及せず、「大学が全国で約800校ある中、大学教育の質が低下している」「大半の(審議会)委員が大学(関係者)で、大学同士が互いに検討している」と述べた。
*************************************************************************************************** 産経ニュース

 田中文科相が、大学の設置申請を不認可とした事を取り上げたニュースである

この場合、「田中文科相が来春開校予定の3大学の設置申請を不認可とした」というのが事実だ。だが、記事では「ルールを無視した判断で、到底認められない」となっている。
これは事実に加えられた“独自の意見”だ。

 さらに、
①「歴代文科相が任命した現委員による従来の大学設置基準に沿った答申を否定することは、裁量権の逸脱である」
②「いずれも短大や専門学校からの改組で、申請に不備はなかった」
③「しかも、副大臣ら政務三役にも事前の相談がなかった」
④「政治主導を通り越して、大臣の独断専行に近い」
と続くが、①と④も“独自の見解”である。
それに②は当たり前の事だし、③はそもそも大臣に権限のある事なら別に問題ないだろうし、相談していれば良かったとでも言うのだろうかと問い質したい。
 
 締めくくりは、「田中文科相は、不認可の決定を取り消すべきだ」となる。
また、「田中氏は11年前、小泉純一郎内閣の外相に就任したが、事務当局との無用な軋轢で混乱を招き、米国要人との会談を直前にキャンセルするなど非常識な言動が目立った。大臣としての適性に欠ける政治家を文科相に起用した野田佳彦首相の任命責任は極めて重い」とたたみ掛ける。

 もう慣れっこなのだが、マミコミには自分の“勝手な意見”の前に事実をもう少し詳しく説明して欲しいと思う。 たとえば、今回対象になったのは、秋田公立美術大(秋田市)、札幌保健医療大(札幌市)、岡崎女子大(愛知県岡崎市)の3つらしい。

そもそもこれらの大学が本当に必要なのか、という議論がまずあるべきだろう。
失礼ながら候補の3つは、他に行くところがない学生を救済する意味しかないのではないかと思えてならない。


 田中文科相は、それを議論した学校法人審議会は身内の慣れ合いで不適切と断じている。それを否定するなら、身内でないことを証明すればいいだけだが、事実だからそれはできない。そんな身内のなあなあな取り決めは、誰が考えても問題である。さらに本当に行きたいと思っている学生がどれだけいるのか、ニーズがどれだけあるのか、我々にはわからない。

 また、税金は使われるのか、使われるとしたらどれくらいなのか。大学であれば国立も私学も税金での補助がなされていたと思うが、その点ではどうなのか。消費税を上げるという中で、どのくらいの税金が使われるのか、個人的には関心が非常に高い。

 そもそも1990年代には大学の数が500校だったらしい。それが規制緩和で今や800校。
一方で無駄を削除しろと大合唱しながら、正直言って「他に行くところのない学生」を受け入れるような大学を設置する意味はあるのだろうかと思う。
このように考えれば、田中文科相の決断を支持する人だって出てくるだろう。

 同じ事実でもどう伝えるかによって、受け手の感情は180度変わる。マスコミは確実に世論を操作できる。今の政治家がポピュリズムに走って3流というレッテルを貼られるのも、本人の資質だけの問題とも言いにくい。そこには“4流”マスコミの害悪も確実に存在する。

よけいな事はしなくていいから、マスコミには事実だけを報道してほしいと切に願うところである・・・


⇒ マスコミが国を滅ぼす1