先週末に長女は二日間にわたってチョコ作り。
ママと一緒に買い物に行き、何やら台所にこもってせっせとこしらえていた。
そうして作ったものを、当日放課後にそれぞれの家に届けたらしい。
学校にチョコを持って行ってはいけないようなのである。
長女が配ったチョコは4つ。
友達への友チョコが3つと本命チョコが1つ。
個人情報保護の影響か本命チョコの男の子の家がわからず、友達に聞いてまわったそうである。
今はなかなか大変なご時世である。
小学校4年とはいえ、それなりに渡す時は緊張したらしい。
私が初めて女の子に「好きだ」と言ったのは小学校6年の時だった。
あっさりと「まだ早い」と言われてしまった。
あの頃もバレンタインデーの習慣はあったと思うが、縁のなかった私にはあまり記憶に残っていない。ただ「好きだ」と直接言うしかなかったから、チョコをあげるという行為で表現できる女の子は羨ましい気もする。
一方、長男は私が帰宅するなり小さな段ボールを抱えて中味を見せに来た。
いろいろな種類のチョコが無造作に放りこんである。
「全部で10個(中にはお婆ちゃんと叔母ちゃんの組織票も入っている)あるよ」と報告に来たのだ。
我が子ながら嫌味な奴だ。パパは中学までもらった事がなかったし、昨今は義理チョコだってそうそうもらえないっていうのに(男女比率がアンバランスでチョコ配りも大変な職場なのである)・・・
中には手作りチョコも入っていた。
まあお母さんに手伝ってもらったのだろうが、幼稚園の年中さんで手作りチョコとは恐れ入る。
一緒に渡されたカードを見れば、ひらがなすらミミズが這ったようなたどたどしい字だと言うのに・・・
どれかちょうだいと言ったら断られた。全部一人で食べるらしい。
今からこんなにもらうのが当たり前という感覚になってしまうのも良くない気がする。
ずっともらえなかったからこそ、高校の時初めて直接渡されて舞い上がるほど嬉しかったものである。もらうのが当たり前になると、ああいう嬉しさは味わえない事だろう。
それがいいのか悪いのか。
本当は悪しき習慣だと思うものの、ここまで浸透してしまうと抵抗しても無駄というもの。
子供たちの様子を見ていると楽しいイベントで良いようにも思えるし、素直に認めるべきかもしれない。でもいずれ本命に振られたりもらえなかったりという経験もきっとするだろう。
人生はチョコレートほど甘くはない。
そんな時にこそ、パパの出番はあるような気がするのである・・・
『涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない』(ゲーテ)
【本日の読書】
「野村の実践『論語』」野村克也
「長い長い殺人」宮部みゆき
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