2011年1月31日月曜日

ノートパソコン購入!

先週末は当初スキーに行く予定であった。
ところが湯沢周辺は今年一番の寒波が来るという予報。
大人だけならとかく、子供連れで日帰りとなると無理して行く事もあるまいと、延期。
変わりに延ばし延ばしになっていたパソコンを買いに行く事にした。

天気予報とにらめっこしていたが、今は ウェザーニュースのサイトに行くと目的地をピンポイントで表示してくれる。1時間ごとの天気の推移予測もあり、何より地元レポーターからの報告もある。
いままでのNHKに代表される天気予報とは随分と違うのに驚いた。
こちらも動きを決めるのに大いに役立った。
これはこれからも活用しようと思う。

さて、パソコンであるが、すでにデスクトップはあるので、ノートパソコンが目的。
そのうち子供も使うだろうし、2台あった方がいいだろうと常々思っていたのである。
向かったのは池袋のビックカメラ。
テレビを買った時のポイントが溜まっているからである。

ビックカメラのパソコン館の7階にノートパソコンのコーナーがあるのだが、着くといきなり店員が寄ってくる。こちらが希望を伝えるとすぐにオススメ商品を案内してくれる。
最初に海外メーカーの商品。スペックは問題なく、価格もポイントだけで買えてしまう。
ところが妻の「国産が良い」の一言で国産コーナーへ。

こちらの条件に合わせて勧めてくれたのは、今ビックカメラでもオススメだというFMVのLIFEBOOK。何と組み立ては今時珍しい国内なのだと言う。
“Made in Japan”を前面に打ち出している。パソコンは中身は国内メーカーも海外メーカーも一緒なのだから、私はこだわりはないのだが、何となく国内で雇用を維持しているという点が気に入ってこれに決める。

ただできれば「オフィス」がインストールされていないのが良かったのだが、国産はすべてインストール済みなのだとか。よけいな費用になるし、こういう「余計なお世話と紙一重の手厚さ」が“Made in Japan”の欠点でもあると思う。国民の「お任せ体質」がこういうところから生まれてしまうのである。

帰ってセットアップするとさらに驚く。
ウィルス対策ソフトはノートンの体験版がクリック一つで始められるように画面で訴えてくるし、アマゾンやニフティのアイコンがしっかりとデスクトップに貼りついている。
こういう押しつけには辟易してしまう。
煩わしいアイコンを削除する手間のもどかしさ・・・

ビックカメラで驚いたのは店員の販売姿勢だ。
昨今、どこもコスト削減で店員を捕まえるのに苦労するのだが、このパソコンフロアーでは次から次へと店員に声を掛けられる。説明も噛み砕いて素人にわかりやすく説明してくれる。
やっぱりお隣に量販店日本一のヤマダ電気の総本店がどかんと鎮座しているからだろうか。こうした手厚いサポートで顧客を捕まえようという戦略なのかもしれないが、ありがたいことである。

同時に無線LANへの切り替えもしたのであるが、手続きも手書きのメモで懇切丁寧に教えてくれた。帰ってきてさっそくサクサクできたのはありがたい。
さらにはWiiも無線LANで使える機能が広まるというオマケもついてきた。
2台目のパソコン導入で、一家に一台から一人一台へとやがては進んでいくのであろうか。
値段も初めて買ったデスクトップパソコンの1/3だし、そんな日も遠くなさそうな我が家である・・・


【本日の読書】
「トレードオフ」ジム・コリンズ
「燃ゆるとき」高杉良
    

2011年1月29日土曜日

無駄なことなどないのである

人生に無駄なことがあると思うから無駄な事が起き、無駄な事はないと思うから無駄な事がなくなる
(いつだったか何かで読んでメモした言葉より)
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危機的水準にある我が国の国家予算。
打開策として消費税増税が話題に上っては消えを繰り返している。
大多数の国民としては、「消費税増税は仕方ないとしても、その前に支出を何とかしろよ」という気持ちだろうと思う。事業仕分も何だか失速気味だし、「無駄を省く」という掛け声ばかりで、予算編成は変わる気配もない。

そもそもであるが、「国家予算から無駄を省く」という考えがおかしいのだろう。
きっとお役人のみなさんは、「国家予算に無駄など1円もない」と思っているに違いない。
あればそれこそ「税金の無駄遣い」であり、そんなとんでもない事をお役人がやるわけないのである。だからこそ、政治家が掛け声勇ましく頑張っても、「大山鳴動してネズミ一匹」なのだと思う。

先日、近所の奥様が署名のお願いにやってきた。
なんでもそのうちの子が通う中学校(我が家から一番近い、いつも選挙に使われている中学校だ)の校庭のど真ん中を道路が通るらしい。久々に驚いてしまった。
その中学校は住宅街のまん真ん中にあるのである。
なんでそんなところに道路なんて、と絶句・・・

おそらく戦後の復興期の計画道路なのかもしれない(我が実家も実は計画道路上にあり、固定資産税の優遇を受けている)。一体、今の今頃何でこんな住宅街の真ん中に道路を通す必要性があるのか、まったく理解に苦しむ。別に周辺に渋滞が多くて困っているなんて事情などない。周辺住民は実に静かな環境で快適に暮らしている。

反対運動は静かに起こっているようであるが、たぶんこの計画の必要性をお役人様に尋ねたら、山のようにもっともな回答が返ってくるだろう。
「無駄」などと言おうものなら、猛反撃を食らうに違いない。
だが、「今作らねばならぬほど差し迫って国民に必要と求められているのか?」「必要としている人がいるとしたら、それはどういう人たちなのか?」と尋ねたら、たぶん異なる答えが返ってきそうな気がする。地元の反対運動を見せたら余計にそうだ。

これこそが、お役人様には理解できない「無駄」の正体なのだろう。
きっとそういう例が腐るほどあるに違いない。
みんな「必要な予算」として扱われているのだ。
立ち退き費用なんていくらかかるのだろうと考えると恐ろしいものがある。

人生には無駄なことなど何一つないと思う。
国家予算にも当然そうあってほしい。
ただ「無駄」と「差し迫った必要性」とはうまくわけて使いこなしてほしいと思う。
いずれ重税に圧迫されて、水飲み百姓ならぬ水飲みサラリーマンになるなんて、そんな未来は想像したくないと思うのである・・・


【昨日の読書】
「トレードオフ」ジム・コリンズ
「燃ゆるとき」高杉良
    
  

2011年1月27日木曜日

世の中うまくいかない事もある

同僚が前日の家族の会話を語ってくれた。
5年生になる娘さんが、小学校で鼓笛隊のある楽器担当から落選してしまったという話である。
何でもその小学校では、運動会で6年生がやる鼓笛隊の演奏が競技の目玉であるらしい。
そしてその鼓笛隊でも、その楽器(何だったか忘れてしまった)が花形なのだという。
女の子が担当するらしいのだが、誰もがやりたがって狙っていたらしい。
そして選考会の結果、残念ながら同僚のお嬢さんは落選だったのだと言う。

お母さんも相当期待していたらしく、母子でがっくり涙ポロポロだったらしい。
事前にかなり練習していたらしく、その分期待と落胆は大きかったようである。
先生からも連絡があって、「決してうまくないというわけではない」と言った趣旨の説明があったと言うが、奥さんには受かった子をして「どうしてあの子が・・・」という気持ちがあるらしい。
受かった子やその親に対するやるかたない思いが胸の内に渦巻いているらしい。

人間だから胸の内に悔しい思いが渦巻くのは仕方ない。
それだけで済ませられればよいが、「なんでうちの子じゃないの」となって先生に食ってかかったりすると、いわゆるモンスターPになってしまうのだろう。
先生から連絡があったという事は、毎年そんなゴタゴタがあって先生も気を使っているのかもしれない。選ぶ方だってかなりのプレッシャーがかかるのだろう。

我が子可愛いのは誰もが同じ。
しかし、人生誰もが主役になれるわけではない。
自分の人生においては常に主役であっても、他人との関わり合いの中では、むしろ「その他大勢」の方が多いだろう。同僚の娘さんには気の毒だが、これもいい経験だと思う。
人生初の挫折体験かもしれない。

もしも我が子だったならと考えてみる。
代わりに演奏する事が決まった楽器(その子はピアニカらしい)の演奏を、親として楽しみにしているから頑張るようにと伝えるだろう。一つ一つの楽器の演奏が、全体としてのハーモニーをなす。したがってどの楽器もきちんとその役割を果たさないといけない。そしてやるからには誰よりも上手にピアニカが演奏できるようになりなさいと、私だったら諭すだろう。

さらに週末には練習に付き合ったりして、子供がすねたりひねくれたりしないように見てあげないといけないだろう。まだまだ子供だから、そこは十分なフォローが必要だ。
考えようによっては、親にとっても子供にとってもいい機会に恵まれたと思う。

私自身も考えてみれば随分と唇を噛んだ経験がある。
娘と同じ小学校4年の事だが、どういう経緯だったのか忘れてしまったが、学芸会の劇で主役に抜擢された事がある。と言っても裏の主役だ。
親たちが見に来る本番が表、生徒向けが裏。
わざわざ丸坊主にしての演技だったが、「裏」という意識は拭えなかった。

捲土重来で臨んだ6年生の学芸会。
劇のオーディションに応募したが、あっさりと落とされた。
たぶん、声が通らなかったからだと思う。
自分でも「通りの良い声」ではないなとその時気がついた。
望んでいても、それでも思い通りにならない事として印象に残っている。

それにしても、今だったらお金を積まれたって(10万円未満ならだが)、絶対人前で演技なんてしたいと思わないだろう。子供の頃とは言え、どうしてそんな気持ちになったのかはわからない。だがあの時、自分には演技の道は向いていないとわかった事だけは確かである。あれがなければ、ひょっとしたらいまだに明日を信じて売れない役者をやっていたかもしれない。無限に広がる可能性の中から、向いていない道が一つわかったのは良い事だ。

我が子だって、いつかそんな経験をするだろう。
その時は誰かを恨んだり、すねたりひがんだりするのではなく、その事実を前向きに捉えられるように教えてあげたいと思う。いまだに七転八倒の人生だが、転んだ数よりも1回だけ多く立ち上がろうとする気持ちは随分鍛えられている。そうした成果を子供にはきちんと伝えたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「トレードオフ」ジム・コリンズ
「燃ゆるとき」高杉良
    

2011年1月23日日曜日

お別れ会で再会

高校のラグビー部OB会主催で、T大先輩の「お別れの会」が行われた。
我が高校のラグビー部は1949年の創部。
T大先輩はその創部メンバーの一人で、かつ初代OB会長でもある。
我々が現役の頃もよくグラウンドにやってきて、熱心に指導していただいた。
昨年お亡くなりになり、本人の意思で葬式はなし。
代わってこのお別れ会となった次第である。享年79歳。

指折り数えてみると、我々を指導していただいた頃、T先輩は50歳前後だった事になる。
自宅が高校の近くだった事もあり、私も一度招かれて食事をご馳走になった記憶がある。
「お別れの会」に来ていた後輩たちに聞いてみたところ、やっぱり「スペアリブ」をご馳走になったとか、「肉は男が焼くものだ」と言われて焼いてもらったなどの回答が返ってきたから、私以降もしばらくは同じように面倒をみていただいていたようである。
食欲だけは旺盛な高校生を招いて腹一杯食べさせるのも、今にして思えば大変だった事だろう。

高校生から見ると、50歳のおじさんなど遥かに年上。
先生だって30代、40代だったから尚更だ。
ラグビーが好きで、卒業後にグラウンドに行くとやっぱり変わらずに来られていた。
いつも穏やかに話をしてくれたので、優しいイメージしかなかった。
しかし、昨日は年次の近い後輩であるK大先輩が、現役の頃のエピソードを語ってくれた。
「女と1万回やるんだ」と語ったとか、試合後に相手の選手を呼び出して袋叩きにしたとか、そこには同世代にしか見えない若者の素顔があった。

久しぶりに再会する懐かしい顔も多数。
2つ上のH先輩は入学当時の3年生で、当時は話しかけるのも憚られた。
リーダーとしてチームを引っ張る一方で、そのプレーに憧れて同じポジションを志した。
引退した後は一緒に喫茶店にくっ付いて行って、末席で話を聞く機会が増えた。
グラウンドでの表情と異なり、軽快なトークは面白く、自分にはない魅力を感じてますます憧れた。

H先輩にビールを注ぎながらそんな話をしたのだが、返ってくるトークはやっぱり面白い。
当意即妙、周りを楽しませるトークは健在。人はみな自分にないものに憧れるものだと言うが、H先輩の明るいキャラクターは私にとってまさになりたい自分の一つだった。真面目だが面白味にかける親父の影響を強く受けた私だが、それでも多少のユーモアがあるとしたら、間違いなくあの頃H先輩の真似をしようとしていた成果だと思う。

4~6年上の先輩たちは、私が高校生の頃は大学生。
大学ラグビーで鍛えていたその先輩たちは、当時の私にとっては体もがっちりしていて技術・体力ともに太刀打ちできず、やっぱり雲の上の存在だった。
今では気軽に会話ができるようになったが、それでもあの頃仰ぎ見ていた印象はぬぐえない。
話しながら当時の感覚が蘇るようだった。

T大先輩たちが始めたラグビー部は現在に至るまで62年間にわたり連綿と続いている。
まったく知らない先輩や後輩が、同じジャージを着て同じグラウンドで3年間を過ごしているわけである。一緒に献花した現役の高校生たちは、写真の中でほほ笑むじいさんがどんな人なのか知らないだろうし、集まってきたおじさん、おじいさんたちががやがやと談笑する姿を見て、腹の中では早く帰りたいなんて思っていたかもしれない。

自分のラグビーの原点がここにある。
H先輩やその他の先輩・後輩たちともまた会いたい。
残念ながら一緒に試合するほどみんな体力はないが、あの頃太刀打ちできなかった私も、大学でもラグビーを続けたおかげで、先輩たちと肩を並べられるレベルにまではなれたと思う。
そんな姿を見せたかった気もする。

終わって散会し、いつになく心地良く酔っ払って帰路に着いた。
また次の機会に、お別れの会ではなく、別の形での再会を期待したいと思うのである・・・

     

2011年1月20日木曜日

献血会場にて

昨日突然献血をした。
職場のある本部ビルに日本赤十字のスタッフがわざわざやって来て、ご丁寧に館内放送で案内までしてくれたのである。
同僚のFが行くと言うのを聞いて、突然思い立ったのだ。

献血なんて、実は18の時に高校の前に止まっていた献血車で体験して以来の事だ。
事前に個人情報を登録してもらい、医師の問診を受け、テストで採血され、そのあとようやく採血に至るという手順だった。医師の問診では海外の渡航歴を聞かれた。
初めて行った学生時代の卒業旅行まで遡って告白させられた。

一緒に行った同僚Fはここでアウト。
何でも英国に短期留学歴があるのが問題になったらしい。
狂牛病の問題があってダメだと言う事なのだが、イギリス人が聞いたら怒るんじゃないだろうかと余計な心配をしてしまった。
彼が短期留学していたのは、何と20年前の事なのである・・・

手続きを受けながら、なんとはなしに担当の人とおしゃべり。
今は血液は足りないのかと聞くと、そうでもないが、血液は「生もの」ゆえにストックがきかず、したがって常に集め続けないといけないと言うことだった。
特に東京は人口の集中に加え、大学病院等がたくさんあり、需要が大きいらしい。
地方から東京の病院に手術を受けにくるなんてケースもあるからよけいらしい。

いざ採血となる。
二つのベッドに一人の看護師という形でずらりとベッドが並んでいる。
幸運にも担当の看護師が若くて美人。
やっぱり針を刺されて己の血液が流れて行くのを見るというのは、あまり良い気持ちがしない。
それは看護師さんが美人でもあまり関係ないが、それでも多少気持ちが和らぐ。
自分の血液が透明な管を通って機械に吸い込まれていくのを眺めて過ごす・・・

終わってクッキーとジュースをもらう。
そう言えば昔「売血」なんて事があったと聞いている。
ふと今日の400ccは売ったとしたらいくらなんだろうと考えた。
昭和40年頃は200ccで400円だったと言う話もあり、それだと今なら4倍くらいの値段だという。
それならちょっとしたこずかい稼ぎになる。
今の経済環境下だとだいぶ売れる気もする。

私の血液にはナンバーが振られ、番号も教えられた。
「不特定多数の異性と性的接触をもった」「男同士で性的接触をもった」など何回も聞かれ、何回もNOと答えたのだが、それでも言い出せなかった人は自動応答電話で番号を言えば血液を破棄してくれるのだという。ご丁寧な事である。

しかし、という事はきちんとトレーサビリティーが確立しているわけで、どこでどういう人からいつ取った血液だという事がわかるわけで、輸血の現場で、「これは取れたての若い男性の生きの良い血液ですよ」なんて会話も可能なわけである。
お金持ちなら看護師さんにそっと包んで、「一つ生きの良いやつを頼みます」なんてできるわけだ。
もっとも本気でそんな事を言ったら、現場の人たちに大目玉を食らうに違いない。

今では法律で売血は禁止されている。
命を削って金に変える行為でもあり、やっぱり倫理・モラルの点から好ましくないのだろう。
でもイランでは臓器売買が認められているというから、倫理・モラルと言っても所によりけりだ。

お金はもらえなくても、何となく一日一膳を達成した気分にはなれる。
普段からあまり世の中に貢献していない気もするから、たまにはいいだろう。
今日作ってもらった献血カードだって、携行していたらひょっとすると何かの時に役立つかもしれない。こうした世の中に対するちょっとした貢献も、これからは折に触れてやっていこうかと思うのである・・・


【本日の読書】
「フリー<無料>からお金を生み出す新戦略」クリス・アンダーソン
【超ヤバイ経済学】スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・タブナー
   

2011年1月18日火曜日

その時何が起こったのか?

最近はちょっと下火になった尖閣諸島の漁船衝突事件。
先週末にあの事件の事実関係を聞く機会に恵まれた。
ニュースでは違法操業をしていた中国漁船が、海上保安庁の巡視船に体当たりして逃げようとしたと報道されている。しかし事実は少し違うようである。

もともと最近の中国側の動きに敏感になっていた海上保安庁。
今までは違法操業に対してはすべて域外退去を求めていた。
ところが例の漁船はいつもと違う様子で操業していたため、巡視船は初めて停船を命じた。
実は漁船の船長は酒を飲んでおり(飲酒運転だ)、それもあって停船命令に従わずに逃走を図る。

巡視船はこれを受けて追跡。
と言っても巡視船の最高速度35ノットに対して漁船は10ノット。
まるで勝負にならない。
漁船は巡視船から逃げられないが、何せ海の上の事、巡視船も漁船を止められない。
止めるとなれば警告射撃で脅すか、進路をふさぐしかない。
ロシア海軍は我が国の漁船に対して実弾をぶっ放したが、さすがにそういうわけにはいかない。
というところで巡視船は後者の方法を取った。
そこから2時間にわたる鬼ごっこ。

最初の衝突は、巡視船が漁船を追い越し、進路を直角に遮ったところで起きる。
漁船はまっすぐ進み、巡視船の後部に衝突。
Yutubeの映像でも、巡視船の白い航跡が漁船の進路を遮っている事が分かる。
続いて次の巡視船がやはり並走から漁船を追い抜き、漁船の進路上に寄って行ったため、漁船は右後部に接触。これも巡視船が追い抜きざまに漁船の進路上に侵入し、後部に衝突している様子がビデオでもわかる。尻尾で頭を叩いた感じだ。つまり進路をふさいだ巡視船に、漁船が避け切れずに突っ込んだというのが事実らしい。

と言って巡視船が悪いと言いたいのではない。
意図的に衝突してきたのか、車と違ってブレーキのない船ゆえ回避できずに衝突したのかは微妙な違いだ。ひょっとしたら巡視船側では前者と感じたのかもしれない。
相手のゲンコツに向かって顔から突っ込めば殴られたのと同じという理屈なのかもしれない。
いずれにせよ、諸悪の根源は停船命令に従わなかった漁船なのには変わりない。
逃げる漁船を巡視船が体を張って停船させたのであり、それはそれで立派な行為である。

巡視船側は当初中国海軍の偽装兵の可能性も疑ったらしいが、蓋を開けてみれば船長以下、田舎のおっさんたち。船長の勾留以後はドタバタで中国側との意思疎通も図れず、やる事なす事裏目裏目と出て、結局大騒動に発展。結局は日中の相互不信が事態を悪化させてしまったようである。

ただ事実関係を知ると、最初から何が起こったか公表し、乗組員は田舎の漁民で政治的な意図はなかったとしてお灸をすえて釈放しておけば、大事にはならなかったのではないだろうか。
企業の不祥事でも下手に取り繕おうとして墓穴を掘る例は枚挙に暇がないが、今回もそうなのではないだろうか。意思疎通ができていなければ、些事が大事になるのは個人も国も同じだと言える。

一人一人がしっかり働いていても、しっかりとしたリーダーシップが欠けていると、あらぬ方向に向かってしまう。我が国の行く末は本当に大丈夫なのだろうかと、思わずにはいられないのである・・・


【昨日の読書】
「フリー<無料>からお金を生み出す新戦略」クリス・アンダーソン
【超ヤバイ経済学】スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・タブナー
    

2011年1月14日金曜日

奢り奢られは世につれ

最近の世代は、他人に奢るとか奢られるという行為を非常に嫌うらしいと聞いた。
交際中のカップルでも割り勘で支払いをしていたりするらしい。
もちろん、悪い事ではないし、正直言って若い頃はお金なんてないんだし、見栄を張らずに割り勘にすればいいと思う。すなおに割り勘にできる今の若者を羨ましく思う。

私はと言えば、デートでは男がお金を払うものという風潮で育った。
残念ながら、デートの機会にはそんなに恵まれなかったが、それでも割り勘なんて自分からは絶対言い出せなし、そんな感覚は今でもある。ただ先輩にはよく奢ってもらったし、逆に後輩には奢った。そういうものだという感覚があった。

大学に入り、ラグビー部の門を叩いた私を迎えてくれた先輩たちもそうであった。
当時の我がラグビー部には実にうまいシステムができていた。
毎週試合後にみんなで飲みに行くのだが、学年ごとに分かれて行くような事はしない。
4年生を筆頭に3年、2年、1年と縦割りでいくつかのグループに分かれて行く。
そうして支払いはというと、ざっと4年:3年:2年:1年=6:3:1:0といった割合になっていた。
つまり1年はタダである。これが1年間続く。

1年は練習が終わると雑用がある。
ボール磨き、グラウンド整備、部室掃除等々。
上級生はさっさと帰ってバイトに行けるが、1年はそういうわけにもいかない。
そうした立場と懐具合を考えた、実に合理的なシステムだった。
先輩は後輩に奢る。いつしかそういう感覚が私の身に沁み込んだ。

奢るとなるとどうしても上下の感覚が生じる。
先輩と後輩、上司と部下、男と女。
男と女の関係は、男の願望だろう。
男は常に女より上でありたいと思うものだ。
今は対等を意識する風潮が強いようだ。
男女平等が定着し、女性も男と同じくらい収入があるから、奢ってもらって上から目線で見られるなんてとんでもないと思うのかもしれない。

そう言えば、我が大学のラグビー部も数年前に行った時、みんなタメ口で会話していて、上下関係がまったくわからなかった。それがいいか悪いかはわからない。
飲みに行った時のシステムはどうなっているのだろう。
あの良き伝統は今でも生きているのだろうか。

もうだいぶ前になるが、 H先輩と二人で飲みに行った。
帰る時に先輩が支払いをしようとした。
私ももう社会人で収入があったし、練習後の雑用があるわけでもないから、半分出そうとした。
ところが、H先輩に怒られた。
「お前がどんなに偉くなっても、俺の先輩にはなれないんだぞ」と。
私はありがたく御馳走になった。そんなラグビー部の体質が沁み込んだH先輩の事を今でも敬愛しているし、後輩である事を誇りにも思う。私も後輩たちにはかくありたいと常に思っている。

上下関係も悪くはない。
「奢る」という行為は、上下関係を表す一つの行為である。
対等意識が強い人にとっては、だから嫌なのかもしれない。
例えタダ酒でも上司となんか飲みに行きたくもないというのが、若者たちの気持ちなのかもしれない。それはそれでわかるのだが、何だかなぁという気持ちがするのも確かである。

今の学生たちはどうなんだろう。
タメ口聞いて、対等の友達感覚で先輩と付き合っているんだろうか。
今年はグラウンドに行こうと思っているから、是非そこらへんの風潮を掴んできたい。
もしもラグビー部にかつての伝統が残っていたら嬉しく思うし、残っていなかったらきっと寂しく思うに違いない。変わりゆく世の中にあって、変わってほしくないものの一つであると思うのである・・・



【本日の読書】
「フリー<無料>からお金を生み出す新戦略」クリス・アンダーソン
「超ヤバイ経済学」スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・タブナー

【本日の漫画】
「バガボンド33」井上雄彦
「ONE PIECE④」尾田栄一郎


     

2011年1月10日月曜日

立場が変われば見方も変わる

ふと昔受けたテストの問題を思い出した。
確か中学生の頃だったと思うのだが、アチーブメント・テストというものがあって、その中の英語の試験問題の一つだ。英文を読んで題意を問う問題だった。

ある貧しい少年が金持ちの家のディナーに招待される。
少年は普段通りの貧しい身なりで訪ねて行くが、その身なりゆえに追い返されてしまう。
そこで今度はジャケットを借りて着て行くと、今度は中に入れてもらえる。
そうしていざ食事となった時、少年はジャケットをスープに突っ込んで言うのだ。
「さあお食べ、ここに招かれて食事を出されたのはお前だから、お前が食べるといい」

一度目と二度目の訪問での違いはジャケットを着ているかいないかだけ。
したがって、食事に招かれたのは少年ではなく、ジャケットだという少年なりの解釈だったわけである。問題文は、英文の題意を選択肢から選ぶスタイルで、下記のような選択肢が付されていた。
① 人を身なりで判断してはいけない
② 非常識な振舞いをする少年
③ ④その他忘れてしまった選択肢・・・

当然問題文としての答えは①だという事はわかったのであるが、そこで随分と迷ってしまった。
②も正解に思えたからだ。
①が出題者の求める正解だとわかっていても、なおかつ②も正解だと主張したかったから、敢えて②と答えた。学校の試験問題であったら、あとで答え合わせの時間に先生になぜ②と考えたのか主張・抗議していたであろう。だが、業者テストだからそれもできず残念だった。

その時考えたのはこうだ。
少年は確かに貧しいから最初は無理せず普段着で行った。
ところがドレスコードに引っ掛かって入れてもらえなかった。
普通食事に招かれたのなら、きちんとした格好で行くのが常識だ。
招待してくれた家の事を考えれば、正装で行くのはマナーだ。
いくら持っていないからといって、冠婚葬祭にTシャツにジーンズで行くだろうか?
その家の主の判断を責める理由はない。

しかも少年は2回目には、人に借りてきちんとしたジャケットを着て行っている。
そうした手段が取れるのであるから、始めからそうすべきだったのだ。
なのにそうせず、2回目に中に招かれた時、スープにジャケットを突っ込むという暴挙に出ている。
それも人様に借りたジャケットを、だ。これを非常識と言わずして何と言うのだろう。
「人を身なりで判断してはいけない」なんて教訓の例にするには、かなり不適切な問題だ。
おそらく問題作成者は一つの見方に凝り固まっていて、別の視点からの見方なんて思いもつかなかったのだろう。

先月「ヴェニスの商人」という映画を観た時も同じように感じた。
「ヴェニスの商人」は、誰もが知っているシェークスピアの名作だ。
しかし、実はユダヤ人差別に満ち溢れた話なのである。
ストーリーは、借金のカタに胸の肉1ポンドを担保にしたユダヤの商人シャイロックを、裁判官になりすましたポーシャが知恵で懲らしめるといるもので、誰でも痛快な気分を味わった記憶があると思う。しかし、シャイロックの立場からこの物語を見ると、違う風景が広がってくる。

映画の冒頭で忌み嫌われ差別されるユダヤ人の姿は酷いものだ。
そしてシャイロックをやりこめた後、続けざまに無理を畳みかける「正義の」主人公。
最後にはシャイロックに対してキリスト教への改宗をも命じてしまう。
基本的人権・信仰の自由という概念は、シェークスピアには欠けていたようである。

立場を変えて考えてみるという事はとても重要な事だと、最近つくづく思う。
自分にとっては絶対正しいと思う事であっても、他人から見ればそうではないかもしれない。
自分の考えを相手に認めてもらいたいと思うのであれば、まずはそんな相手の考え方を理解するところから始めないといけない。そんな風に実感している。

私は特に物怖じしない方だし、誰に対してでも自分の意見を言う事ができる。
だけど人によってはそうではないし、場合によっては遠慮して反論できない人だっているだろう。
相手が何も言わないから自分の意見が通ったと思うのは、だから危険だとこの頃になって感じている。

子供に「人間にはどうして耳が二つで口が一つなのだと思う?」と語った事がある。
自分が話す以上に人の話を聞きなさいと教えたのだ。
だが、そういう自分が実践できていたかと思うとちょっと怪しい。
理屈でねじ伏せてしまった事が、たびたびあったかもしれない。
特に自分の親に対しては、そうだった気がする。

今年は視線の違いを意識して、人の話をよく聞こうと思っている。
今さらながら、相手の目から見た世界を理解するようにしたい。
独りよがりの問題制作者にならないように、意識していきたいと思うのである・・・

     

2011年1月8日土曜日

お正月はラグビー2011

お正月はやっぱりラグビーである。
全国各地で行われた熱戦も11月でほぼ終わる。
我が母校の大学が所属する対抗戦グループも、12月第一日曜日の早明戦をもって全日程を終了する。
我が母校は今期対抗戦Bグループで8校中6位であった。
昨年の4位からは順位を落としたが、まあほとんど定位置である。

ちなみに対抗戦グループにはいくつか伝統的な不文律というものがある。
その一つが「対抗戦の最終戦は早明戦」というものである。
この日は早明以外には試合をしないのである。
日程的にやり繰りが大変ではあるが、各校ともこの日まで(遅くとも前日の土曜日まで)には全日程を終える申し合わせとなっているのである。

今年はあちこちで同じような異変があった。「伝統校の不振」である。対抗戦グループでは日体大が1引分他全敗でABの入れ替え戦に出るハメになった。関東リーグ戦では法政大学が、関西では同志社大学が、それぞれ下位グループとの入れ替え戦に出ている。私が現役時代、同志社は黄金時代で、平尾・大八木などの大選手を擁して大学選手権4連覇し、関東勢が束になっても敵わない強豪であった。まあ4年で選手がすべて入れ替わるのが学生スポーツゆえ、そうした事もあるのだろう。

今年は早稲田と帝京が決勝戦を争う。
対抗戦同士の組み合わせとなるが、準決勝を見た限りでは早稲田の勝ちは動かないだろう。
今は関東勢が強いのであるが、早稲田のメンバーを見れば、昨年の高校チャンピオンである東福岡高校の選手を始め、全国の強豪高校の選手が名を連ねている。
「早稲田を倒したい」というよりも「早稲田で闘いたい」と思うのであろうか。

伝統校には不思議な「伝統の持つ強さ」というものがある。
先の不文律ではないが、伝統としか説明のできない力がある。
何年か前の慶応大学が早慶戦で見せたのがそれだ。
全勝で優勝へ向けた早稲田と早々に優勝争いから離脱した慶応。
勝敗は見るまでもないと思っていたら、何と結果は1点差で早稲田の薄氷の勝利。
「早慶戦」に対する慶応の並々ならぬ執念を感じさせた一戦だった。
そんな伝統に対する憧れが、力のある高校生には働くのかもしれない。

今日は高校生の決勝戦。
出場する選手は早ければ今年の早慶戦・早明戦で見る事ができるだろうし、ひょっとしたら2019年のワールドカップ日本大会に出場するかもしれない。
今は見る方専門となってしまったが、それはそれで楽しみたいと思うのである・・・


【昨日の読書】
「心の野球」桑田真澄
「大空のサムライ(下)」坂井三郎

     

2011年1月4日火曜日

2011年のお正月

大晦日から新年にかけて、我が家のスケジュールは毎年決まっている。
ところが、今年は少々違った正月となった。
元旦までは同じ。しかし2日から、私は家族と別行動。
家族は例年の通り、大阪にある妻の実家へ。
私だけ再び東京の実家へと向かったのである。

昨年入院騒ぎがあったが、ここのところ母親の体調がまたおもわしくない。
そこで家事手伝いの意味もあって私だけ別行動を取ったのである。
実家で家事手伝いといっても、私にできる家事は限られている。
せいぜいが買い物か食器洗いか掃除くらいであるが、正月から買い物も掃除もあまりないので、残る食器洗いだけひたすらやっていたようなものであった。

それでも昨日は父も交えて3人で散歩を兼ねた初詣。
向かったのは目黒不動。私は生れてから社会人になって家を出るまで、ずっと今の実家のある武蔵小山界隈に住んでいたが、この目黒不動のあるあたりは4歳まで住んでいたエリアである。親子で当時を懐かしみながら歩く。

何度も聞かされた引きつけを起こした幼児の頃のエピソード。
私を抱えて運び込んだという宮平医院は、代替わりはしているが、いまでも健在。
私を抱えて走った時の様子を親父が身振りを交えて語ってくれる。
一時は先生が人工呼吸をするような状態だったらしい。
子供の頃の記憶は人によって様々なのだろうが、私はこのあたりで遊んだ4歳までの頃の記憶がかなり残っている。ただ、街並みまではさすがにぼんやりとしてしまっている。

途中で分譲売り出しの土地を見つける。一見して40坪の更地。
建築条件付きで5,280円は、このあたりでは驚きの安さなのでびっくり。
普通の庶民の家は、どこも20坪くらいの広さで3階建てが一般的なくらいここらは土地が高いのだ。
それゆえに「ワケあり」物件かな、などと想像してみた。
しかし、看板をよくよく見てみると、なんと「全3区画」の文字が・・・
そうだろうと納得したが、ここにも幅の狭い3階建てが建つのであろう。
いいところだとは思うが、実家のそばに住む事を断念した理由の一つでもある。

親子3人で初詣などはたぶん20年振りくらいだ。
そのあともさらに散歩を続ける。
高台になっている一角は、一転して高級住宅街。
そびえ立つという言葉も大げさではないほどの豪邸が建ち並ぶ。
今では某国の大使館になっている一角は、かつてフランク永井邸のあったところだと教えられる。

普段歩き慣れない街中を散策するのは結構好きな方なので、興味深く人様の家を眺める。
だが、大半は比較的新しい家だ。
我々が住んでいたのは40年以上も前。
今とは街の様子もだいぶ違ったはずだ。
両親も「だいぶ変わった」と何度も言いながら歩いていたが、視線の先には若かりし日の街の様子が映っていたのかもしれない。

いつのまにやら7,000歩以上の散歩となってしまった。
いつもはすぐにしんどくなって、こんなにたくさん歩けないという母親も一緒になって歩いていた。
食器洗い以外にも多少の貢献はあったのかもしれない。

来年はまたたぶんいつもの正月になるだろう。
だが、散歩くらいならいつでも来れる。
今年はもう少し頻繁に実家に顔をだそうか。
今年やるべき事のリストにさっそく加える事にしたのである・・・


【本日の読書】
「大空のサムライ(上)」坂井三郎