先週末に実家へ行った。
大掃除の手伝いという目的があったのだが、それはそれで少し母親と二人で話をした。
どうも気になっていた事があったようだ。
何かと言えば、私の妻との事であった。
長男の運動会の時にちょっと気になるやり取りがあったという。
実は我が家も世間並みに嫁姑の対立がある。
犬と猿が本当に仲が悪いのかどうかはわからないが、我が家の嫁姑は見事に仲がよろしくない。
結婚以来、それが私の頭痛の種である。
かつては将来同居も、何て考えた事もあったが、今ではそんな恐ろしい考えはない。
どうして仲が悪いのかまったくわからない。
曰く、モノをあげてもお礼がない。
退院したのに一言もない。
あんな事言われた、こんな事言われた・・・
お互いにあら探しして、少しでも何かあると鬼の首をとったように私に訴えてくる。
まあ直接目の前でケンカされるよりはマシなのだが・・・
一つ一つは実に些細な事なのである。
どちらも悪気があるわけではない。
つまり受け取り方の問題なのである。
私からすれば、さらりと気にせずにやり過ごせばそれで済む話なのである。
実家に行けば私もいろいろと野菜や果物や米や、母親が故郷で調達してきたモノをもらって帰る。
それを持ち帰ったあと妻からお礼の電話がないと親は言う。
妻からすれば、私がすでにお礼を言ってもらってきているわけで、我が家としてのお礼は済んでいると気軽に考えている。だが、我が両親はそう考えない。
逆もある。
両親の誕生日や、父の日、母の日に我が家から両親にプレゼントを送る。
私にはお礼を言ってくれないと今度は妻が不平を言う。
両親はもちろん、妻がそんな不満を持っている事など知りもしない。
そんな具合である。
もちろん、モノをもらえばお礼を言うのは当たり前だ。
だが、間に一人(私だ)入っている事で、この常識にずれが生じる。
でも、そもそもお礼目当てに贈り物をするわけではないだろう。
自分が相手にあげたいと思うからするのであって、お礼目当てでするものではない。
お礼がなくて嫌なら次からやめればよい。見返りを求める事がおかしい。
愛とは一方的で、無報酬であるべきなのである。
母親には話をした。
「そもそもお互いに仲良くしようと思うのなら、どうして相手の欠点にばかり目を向けるのか。
気に食わない事だけをいつもしっかりと覚えていて、何かあればそれを持ち出す。
これまでにしてもらって嬉しかった事はないのか?
どうして『ありがとう 』と思った事を覚えておかないで、嫌な思いをした事だけを覚えているのか?
互いに相手の良い部分を見て、悪い部分は見ないようにすれば良いではないか。
相手に要求するばかりで、どうして自分が柔軟に対応しようと思わないのか」、と。
いつもの事だが、理屈では私が圧倒する。
だが感情は別だ。
「そうは言ったって、お前ね・・・」という気持ちが常にある。
だから私がいくら正論を吐いても届かない。
私もあまり体調の良くない母親に強くも言えない。
もともとお互い望んで義理の親子関係になったわけではない。
そんな気持ちがあるのだろうか。
数年前に結婚した従兄弟に子供が生まれ、親(叔母)と同居しようという話が持ち上がっている。
母親としてはそれも羨ましく思っているフシがある。
私としては、一体どんな奥さんなのだろうと、結婚式で一度だけ会っただけの彼の奥さんをこれまた羨ましく思う。
他人は変えられない、自分の心のあり様を変えるだけという考え方の私としては、到底解決困難な難問を抱え込んでしまっている。
アラブとイスラエルの対決を解決するより難しいかもしれない。
無邪気にサンタさんに手紙を書く長男を見つめては、「お前もいつか絶対同じ苦労するだろうな」と思わずにはいられない。いつか男二人で酒を酌み交わしながら、「まったく、女ってやつは」と愚痴り合う事になるのだろうか。
そうは言っても、もう少し何とか出来ないものか、それだけは諦めずに探していくことにしたいと思うのである・・・
【本日の読書】
「中国で尊敬される日本人たち」朱健栄
「影法師」百田尚樹
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